元センセー 日記

元都内公立小学校教師、現在は色んな考えや世界に触れて変わっていく自分とその周囲を観察するのが楽しい.

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ぼやき③

私のベースに流れているものを思い出した。

 

 

虚無感。

 

生きることにも意味が無い。

 

私の向かう先には目的地も無いし、

ゴールしようとも思わない。

 

全てのことに興味ないし、

つまらない。

 

ただ、こう生きていることが辛い。

 

こういう人生が少なくともあと何十年も続くのかと思うだけで憂鬱になる。

 

 

楽しいことや喜びはあるけど、すぐに消えてしまうし、悲しいや惨めな思いははずっと残るし。

 

 

 

ただ、ただ、生きるのが苦痛。

 

今までなんで忘れてたんだろうか。

 

希望を持っていたのか?夢を描いていたのか?

 

 

でも突然ものすごい虚しさに襲われることがあった。

 

 

それに抵抗するし、思い出したくないし、何もしたくないし、

それでも世の中は流れていく。

 

 

消えてしまいたい衝動とか

無気力感ってのは、気分が悪い。

 

 

こういう時に命の大切さを説かれても、生きたくても生きれない、、、、とか言う方々もいらっしゃる。

 

 

たぶん、自分のことしか見えていないのか。

わたし。

 

 

みんな惨めで意味を見出せない虚しさの中で生きているのだろうか。

 

 

生はこんなに過酷なものなのか。

 

 

自分から死を選ぶ気持ちもよくわかるよ。

 

 

 

何にもないんだ。

 

ふう。。

 

つづく。

 

 

他人に人生を委ねている人間の苦悩

いつも戦っていなければいけないというのはつらいですね

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12年間。

自分の年齢の約半分の期間競技の世界にいたからか

自分の生まれつきの負けず嫌いからか

現代の比較競争教育の賜物か

 

全てが相まって

私は常に何かと人と優劣を付けなければ

自分を保てないらしい。

 

 

 

 

 

戦士がいざという時に自分を守ってくれるだろう

鎧を脱ぐのは容易いことじゃあない

その行為は死にも値する。

 

何層もの強力なプロテクターをまとった心は固く重い

そして中に守られた心はあまりに繊細で儚い

 

誰にも傷つけられまいと

私は必死に警戒し、疑い、恐れ、怒る。

 

 

戦いというのは勝っても負けても

どんな過程においても酷く自分を惨めにする。

 

負ければ自分の存在は否定される。

くだらないけど、遊びでやるトランプなんかでも

私はその勝敗にこだわり負ければ

「勝ったものに服従するか或いは存在価値が無い自分を消したい」と思う。

 

逆に勝つと優越感を握りしめたいという衝動と

「それは最低の人間がすることだ」と戒め

しかし「見下すという精神が血潮にヒタヒタと流れている自分」を心から軽蔑する。

 

 

今まで誰も

「卓球(を競技としてやっていた)で君の存在価値が決まるわけじゃないよ」

「勝ち負けは人生でそんなに大切じゃあないよ」

と教えてくれなかった。

言っていたとしても、何かの勝敗、優劣が私への態度や扱いに大きく影響していたのは間違いなかった。

 

大学在学中にはそのスポーツ競技の修羅から逃げ出したくて

「芸術だ」「芸術こそがありのままの自分でいられる場所だ」

と信じて飛び込んだ「デッサン基礎クラス」。

出鼻を折られるように終了後に全員の絵を前に並べて

左が1番「優秀」右に行けば行くほど「劣」という風に扱われた。

 

もう何にもしたくなかった。

 

何も出来なかった。

自分で自分の価値を判断できるような人間としての教育を受けなかった。

 

とにかく何かにしがみつき誰かに自分をほめて、認めてほしくて、必死だった。

そうしないと

価値のないだろう自分の存在は遂に無くなってしまうと思った。

一言も話をしないで3日が過ぎた時、自分が透明人間じゃないかと本気で思った。

 

他人に人生を委ねている人間の苦悩

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ここまで書いて来てさんざん

「周囲のせいでじぶんはこうなった」

「周りは助けてくれなかった」

と言っているけど

 

 

これらの責任は全て

私が今まで自分でひとつも判断せずに

「自分の判断、評価、つまり人生そのものを人に委ねてしまった」からに間違いない。

何を食べるか、何を知るか、何が大切か、何をしたいか。。

「あたしゃ、こう生きる!」と一度出も言ったことがあったか。

 

 

他人に人生を委ねている人間の苦悩だ。

 

たとえ、競技の世界にいる人でも、自分で判断している人は目の前の勝敗に一喜一憂することは少なく、自分の行為の結果としての勝敗を健康的に受け止めることが出来ている。

 

この殺し合いのらせん階段から抜けるには

自分自身で自分の人生を歩く以外ない。

と思う。

 

つづく

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希望とは

何かの度にいつも口にする言葉がある。

 

「希望さえあれば」

 

希望さえあれば人は生きていける

希望がないと人はどんな状況であっても死ねる

 

とつくづく思う。

 

◆希望とは何なんだろうか?

 

希望は思うに

「明日への、将来への肯定的な想像力」

 

たかが妄想だなんてバカにしてはいけない。

この強力なプラスの妄想は

私達の世界を変える。

人々の表情を変える。

腰を上げて歩き出そうとする為の原動力になる。

 

どんな困難な状況でも

どんな問題が起きても

 

 

「希望を持ち続けることが大切だ」

たかだか27才の青二才の小生だけど胸を張って言っておく。

 

 

「いや違う、問題解決のためには精神論・感情論では不十分だ。」

 

「問題把握力、解決力、発想力、自分の出来ない仕事の援助を請う為のコミュニケーション力が無ければ根源的な解決にならない。二の舞を踏むだけだ。」

と言う人がいるかもしれない。

 

 

その通りだ。

不十分であるに決まっている。

肯定的想像である希望だけでは

飯は食えないし仕事は終わらない。

 

でも

希望なしには人は何も出来ない。

希望なしには問題を把握する力を付ける以前に解決を諦める。

 

 

トンネルの先に光があると分かるからそこに向かって、まず歩き出せる。

 

いくらクマ撃退力がレベル100のおっちゃんがいたとしても、「倒せるかも」という希望が無かったらクマが現れる前に戦闘を辞めるだろうし、戦ったとしても倒せるわけないし、そもそも希望を持たないおっちゃんが撃退する為の修行を始められない。

 *この例えはひどい。。。

 

希望はそこに僅かな可能性を見出す想像力?

 

 

私達が「今の状態を維持していたい」という

慣性の法則にわざわざ抗って

重たい身体と気持ちを鼓舞して仕事に行くのも

こたつから出て冷たい便座に腰を下ろすのも

 

「その先にいいこと(≒幸せ)があるんだ」と

肯定的な想像力を働かせて将来に「希望」を持てているからじゃないの?

 

それとも欲を満たしたいという欲求に駆り立てられているだけ?

 

それならば

「馬の顔前にニンジンを吊る下げて走らせるように外部からの賞罰などによってもたらせる外発的動機づけはコントロールされやすいし、悪いように利用され得る。」

「そもそも行動そのものでなく賞罰が目的だから、その過程が効率的な行動にならないし、楽しくない」と

言う人がいるかもしれない。いないかも。

 

いやもう私は何を言っているんだ。

滅茶苦茶過ぎる。

 

 

でも

うるさい。

うるさい。

 

いいんだそんなこと。

細かいこと言うな。

 

 

私はただ生きて欲しいだけだ。

 

人々がどんな状況であっても

 

自分を貶めず

自分の命を投げ出さず

自分の手で全てを終わらせず

 

無知でも

無能でも

無力でも

 

なんでも

生きてさえいれば

と思っているだけだから。

 

 

 

今の私は

たとえ預金残高が一桁を切り、仕事も見つからず、

自分の力不足を目の当たりにしてあわや絶望しかけても

 

生きていける。

 

「大丈夫、何とかなるさ」とあたしに言ってやるよ。

 

希望さえあれば生きていける。

 

 

充分な給与をもらい、住む所があり

自分を心から愛してくれる人々に囲まれ

周囲が羨むような状況でも

 

希望が無いと

 

虚無感に苛まれ

空しい、何をしても意味がないと。

何になるのだと。やっても変わらないと。

どうせまた同じ繰り返しだと。

 そうすると

 

死ぬよ

 

 

 死ぬな

 

 死ぬなよ

 

 

 

希望とは何なんだろうか?

夢と同じようなものなのか?

 

ここまで書いて自分でもよく分からなくなって来た。

 

やっぱり

ごめんなさいね。

 

希望学というのが東京大学にあるらしい。

 

つづく

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家族を捨てる日本人~幸せとは~

「・・わが愛するインドよぉ。

また会う日まで、それまで泣くな、

お互い元気にやろう。」

 

インド半年滞在を終え

私は遂に帰国の途についた。

 

*このブログは1か月前に下書きしたものです。

 

 上海空港にて

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道すがら

経由地の上海で

例によって飛行機に4時間の遅れが出た。

中国東方航空では日常茶飯事)

 

21番ゲート前はため息つく人々で溢れかえっていた。

 

私はその後の乗り換えも帰国後すぐの予定もなく

何時間遅れても平気、という

余裕な態度で

どっしりと椅子に腰かけて

瞑想でもしようかと思ってた。

 

 

ふと隣に座っている

黒のスーツを着た男性に目が行った。

 

なぜなら彼は「インド人」だから。

 

 

デリーを後にしてからというもの

周囲はすっかり

モンゴロイドののっぺり顔で

物静かなアジア人。

 

なんだか寂しく物足りなく

やっぱりスパイスが足りないスープみたいな

インドの一瞬で五感をどっかに扇動しちまうみたいな

「刺激物」を欲する自分がいた。

 

 

そんなんで

単に「インド人」というだけでも

私はこうふんした。

テンションが上がった。

 

 

 インド人とおしゃべり

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そして勿論話しかけた。

 

私「ケーセーホ?(お元気ですか?)」

印「イエス、ファイン。(元気だよ)

  ウェア アーユー フロム?(どこから来たの?)」

私「メ― アッサム セー(アッサムから来たよ)」

*アッサムはインド北東部のモンゴロイド系民族が多い僻地

印「アチャチャ(そうなんだ)」

 

みたいに、例の如く、

つたないヒンディー語で軽く嘘つく。(御愛嬌)

 

彼はムンバイ近郊の町出身で

ソフトウェア開発ビジネスのマネージャー業務として

10日間中国上海で仕事をして今日帰るのだそう。

 

でも、この後「デリー➡ムンバイ」の便があるから

飛行機の遅延をかなり気にしていて、そわそわしている感じだったけど

会話を始めるとさすが話し好きのインド人らしく

一瞬でそわそわもどっかに飛んでいった様子。

 

 

私「大変だね、でもこの航空会社はいつも遅れるんだよ。」

印「そうなの?どうして?」

私「うーーん、多分こういうの習慣なんだよ。」

印「どうして?」

私「中国人はのんびり屋なんじゃない?」

印「なんで?」

私「・・・・・・」

印「・・・・・・」(私の目をジー―――とみて回答待つ。)

 

ああ、この質問攻め。

インド人のねっちねちのしつこいまでの好奇心。

「胸を張って生きよう」と思わせてくれる程に彼らは無垢で高潔な精神だ。

 

*先日、私はインド人ほめ過ぎと言われた。。

 

 

懐かしくて、うれしくて会話は弾む。

 

私「日本は行ったことある?」

印「あるよ!京都、大阪!」

私「どうだった?」

印「アメィジング!!(素晴らしいい!!)」

私「何が?」

印「カンフーがすごい!」

 

笑!日本じゃないし!

 

話題を変えた。

 

私「でも、日本はいいことばかりじゃないよ。日本は過去10年間、自殺者は毎年3万人だよ。」

 

私はこの事実をあらゆる機会に人々に話した。

外国人に日本の良い面だけを伝えてお国の宣伝みたいなことはしたくない。

 むしろ

現代社会の大車輪の「歪み」が生み出した

我が国の光当たらぬ陰に追いやられた

大量の 社会的、経済的そして精神的「弱者」たちを

どうか知って欲しい。

 

 

この世界は間違っていると誰でもいいから伝えたい。

 

同じ轍を踏まないで反面教師にして欲しい。

 

そして、いち日本人から世界に向けてのSOSでもある。

 

 

 

彼は私の話に真剣に耳を傾けてくれた。

 

そして

「なぜ日本はそんなに自殺が多いのか」

ということについて色々と意見を交わしたのだが、

その中で彼と交わした

「家族との関わり方」についての話をすこし。

 

家族との関わり方

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私「私は今東京で暮らしてるよ」

印「誰と一緒に?」

私「一人だよ」

印「え?兄弟や家族は?」

私「いや、両親は別の地域で暮らしてて、兄二人は結婚して家を出てそれぞれの家庭を持っているよ。」

印「どうして?どうして一緒に暮らさないの?」

どうしてなんだろう。よくわからない。

私「私は東京で仕事が見つかったからかな。兄はもう結婚したし仕事があるからかな。。」

一緒に暮らさない正当な理由が見つからないんだろうか?

 

印「じゃあ、君の両親は二人で暮らして年を取っていくんだよね?もし、両親が介護が必要になったらどうするの?」

ドキッとした。考えたくなくてほったらかしにしていたから。

 

私「うーん、その時は私か誰か兄弟が家に戻ると思うけど。。」

印「でも、どうして日本人はみんな両親を捨てて、自分たちの家を新しく作ったりして外に出ていってしまうの?」

「捨てる(Throw)」という言葉を食らったんだ。

 

印「以前、僕が会った日本人も皆、20歳前後で家から出て個人個人の家をもって、自分の両親は年を取ったら施設(老人ホーム)に入れると聞いたよ。どうしてなの??」

私「・・・・・・。うーーん。両親がいる実家から出て自分で生計を立てるのが、自立の一つのステータスとして世の中で認識されているのかなあ。そうしなければ精神的に成熟しないような気がする。そんな雰囲気があるよ社会に。」

家庭の事について今まで一度も真剣に思考を巡らせたことが無い自分を冷酷に思って恥じた。

 

印「インドではここが日本と大きく違う所だと思うよ。

僕らは、自分を育て、美味しい料理をくれ、いい教育を受けさせ、たくさんの幸せをくれた両親を捨てたりは決してしない。たとえ仲が良くなかったとしてもね。

今、自分はお金とを稼ぐことができるから両親にその恩返しができる。

今度は僕たちから両親にたくさんの幸せをあげる番だし、自分の子供たちにも両親がくれたようなたくさんの幸せを授ける責任がある。

私「うん。」

当然何にも言えない。

 

印「でもこれは重荷じゃない。これが本当に幸せなんだ。家族と一緒に幸せを感じられる時が、1番満たされていて生きていてよかったと思えるよ。」

私「うん。」

印「ケーキは一人で食べるよりみんなで食べたほうがおいしいから分け合うんだ。」

 

 

偽善者

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私はいつも

「世の為に自分を役立てたい」

「人の幸せを心から願えるようになりたい」

などと言っている・・・・

 

全く、足元が見えてない。

灯台下暗しもいいとこだ。

 

自分の両親や家族の「幸せ」をさし置いて

なにが「世界平和」だ。

 

身近な人の存在をすっ飛ばし家庭の平和も無いのに

世界だなんて笑ってしまうだろう。

 

結局のところ私は単に

「他人の幸せを願う」という

高尚な精神に憧れていただけだったのか?

 

「いい人」に思われたいという自己顕示欲?

 

「人の為に自分の人生を使う」という自己犠牲は同情を誘うため?

 

 

だとしたら。

 

自分はあの頃の「個人主義者」から

根本的に全く変わっていない。

 

 

何年もの月日をかけて必死に苦しみもがいたはずなのに

全く成長してない自分を見つけてしまった時ほど

深い虚無感に襲われることはない。

 

傲慢。

だから自殺思考に陥ったのかもしれない。

 

 全く食えねえ奴だ自分は。。

 

私のように

善意の奥に自己犠牲精神を隠した人々の集まりは

一見すると「みんなの為といって」

団結しているように見える。

 

でも

その一人一人が隣の友人を出しおいて

成功してやろう。

こいつみたいにはならないようにしよう。

と胸の内で煮えたぎらせている。

 

 

そういう集団は

ひたすら

短期的・一時的な

欲や感情に流され

 

長期的・全体的な幸福や本質を

ことごとく見落とす。

 

そして一歩、歯車が噛み合わなくなると

全体が仲間割れして共倒れし得る危険な集団だ。

 

 

他人の幸せを心から喜べるのか

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現代人で

「公(他人)の幸せを自分の幸せに感じた経験がある人」

がどれだけいるんだろうか。

 

自分が出演していなくても

劇全体が仲間によって素晴らしいものになった時

本当に心から喜べるか。

 

見返りを求めない親切や献身さを

信じることが出来るのか。

 

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                              映画「モモ」より

↑こんな風に

「みんなが幸せな時に自分も幸せを感ずる」

 

つまり「公益の喜び」。

 

この時に働く脳って

 

「ワタクシの幸せ」の時に働く脳と

違うんじゃないかと思う。

 

 

 

本当の持続的な「幸せ」ってのは

 

自分のコップに水を注いでいくように

 

 うまいモン食べた、恋人できた、先生に褒められた、新しい服買った、昇給した

 

みたいな 個人を何かで満たしていく過程で感じられるもんじゃないと思う。

 

 *ここでは生理的欲求が満たされた時に感じるような幸せでない

もっと高次元の人間独自の精神的な幸せのようなものを指す。

本当に幸せになれる時

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金木犀の香りに気づく

 

人々の安らかな生の営みを愛おしく思う

 

この世に生まれたことに感謝する

 

 

 

いつもそこにあるんだけど

 

当たり前にあるから気付きにくくて

 

無関係だと思っていたそれが

 

実は自分に密接に関係している。

 

 

 

「わたし」という存在は個体では存在しえない

身も心も因縁によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから無常なものである。

 

仏教聖典」(仏教道教会刊) 第二章第一節 「変わりゆくものには実体がない」より

因縁=ゆかりや関係性の意。

 

私たちが普段何気なく認めている「私」は本当は

それ個自体ではつかみどころがないもので

外的要因や周囲との関係性に依ってしか認識できない。

というのは仏陀の説かれた真理。

 

自分の畑で美味しい野菜を作りたいなら

いい水が必要で

いい水は川の上流の環境が良くなければいけない

いい土が必要で

いい土はその周囲の木々や水はけや動物など環境全体が良くなければいけない

 

「わたし」が幸せになろうと思うのなら

「わたし」の周囲の人々が幸せであるかに配慮するのは当然なんだ

 

 

私たちはこの世のあらゆるバランスの中で生きている

一つのピースに過ぎないから。

 

 

 

 この当たり前の「幸福論」は実は教育による気がする。

 

教育の目的は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、心身ともに健康な国民の育成を期すること。

 

文科省教育基本法」より

 

人格の完成という所だけに注目するなら、

関係性を理解するときに気付くだろう。

 「私は不完全だという認識が人間を完成させることなのだ」

と。

人間は動物のように生きていれば幸せになれるとは思わない。

 

眉毛がそのいい例だ。

眉毛の役割は汗が目に入らないようにする点もあるが

「人の表情に明らかに大きな変化を加えるという点」から

ヒトだけに著しく発達したと考えられる。

 

私達は否定しようが何をしようが「社会的生物」なんだ。

表情から情報伝達し人と関わるようになっている。

 

 

 

 

「社会的幸せ」

 

これはもはやいつもの「幸せ」という言葉の表す感情では無い。

 

大乗仏教的幸福」とでもいうのか。

 

頭が整理できない。思考が散らかりっぱなしで綴ってごめん。

*日本に来てから文章が書けない。

 

つづく

 

カオスの先の悟り

南インドから飛行機で一気にデリーにスキップする。

 

わずか2時間程でマイソールの気のいいおっちゃん達が遥か遠くに。

 

私はなんだか少し感傷的だけど

 

彼らは私がいても、いなくても

彼らの生活を変わらず今まで通り続けるんだ。

 

デリー空港

深夜1時に

世界1のサービス認定空港という

目を疑う看板だらけのデリー空港に到着。

 

デリーに着くと

覚えたてのヒンディー語

あんまり使ってみようという気にならない。

 

私自身北インドでは警戒しているし

実際、毎度デリー空港のスタッフからは

ひどくぶっきら棒に適当な情報を教えられるという

日本では絶対に味わえない不快なサービスを受ける

あり難い経験をさせて頂いている。

 

ロビーで荷物と自分の腕を紐でくくり付けて朝まで5時間ほど仮眠。

 

朝6時過ぎに市街に出るために

空港バスに飛び乗る。

 

流れる風景の中での瞑想感覚

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地下鉄のメトロは安くて快適で速いのだけれど

私は

少し高くて汚くて遅いバスを選んだ。

 

「イヤホンで音楽を聞きながら

町の風景を窓越しに流し見する時以上に

思索に適した環境ってないんじゃないか」

と思うほど

この一時は思考が広く深くを巡り、明朗になる。

 

瞑想した時のような

一種のトランス状態みたいなものを感じる。

 

 なぜだろう。

 

そういえば以前興味深い方法の「瞑想」を聞いた。

 

Active Meditation(活動的瞑想)という。

 

話によると、

目を開けながらくるくると回り続けたり、

同じ動作をひたすら15分間繰り返すというもの。

 

これは、常に自分の視界や外部環境を変化させ続けることで

逆に動きやすくて定まらない「心」の定点を見出すというものらしい。

 

習得過程の男女差傾向

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例えば大学時こんな話を聞いた。

5歳の男の子と女の子にバランスボード(板の下にボール又は円柱のポールを置き、板の上でバランスを取るようなもの)をやらせる。

 

そうすると習得していく過程で男女差があるらしい。

 

女の子は板の上で「動かず」大きくバランスを崩すことなく

その状態を保つことで習得していく。

男の子は板の上で「動く」ことで派手に転んだりして失敗を重ねながら

徐々にそのバランスの核を見つけて習得していく。

 

女の子は「動かない」ことで 男の子は「動く」ことで

解決策を模索するという。(あくまで傾向)

 

たしかに中学時を思い出すと

女子は先生に「怒られない」ように最初から「正」を自分なりに見定め

男子は先生に「怒られる」ことで徐々に「正」を見出していく。

*ここでの「正」は単に先生個人にとっての「正」。先生の嗜好みたいなもの。

 

最初に木で芯を作って周囲に土などを重ねていく塑像と

元々具体的な形のない木や石を削り落としていき形作る彫刻

みたいなもんなのか。

 

あえて動く(流れる)ことと瞑想

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元に戻すと

この「活動的瞑想」というのは

「男子的瞑想」じゃないのかと思う。

 

1点に留まることを知らない暴れ馬のような

私達の「心」。

 

本来の瞑想イメージは

「お坊さんが静かに心を研ぎ澄まして1点から心がぶれないよう猛烈に集中する」

という日本では「座禅」のような感じ。

 

この方法は非常にレベルが高く

本当に心を留まらせるのには

半世紀かかるとヨガの先生が言っていた。

 

確かに暴れ馬に紐をくくりつけて抑えつけようとするのは

相当な労力がかかるだろうし、

第一に私達一般人には持続できる気がしない。

 

そのオルタナティブ法として

 

ひっきり無しに動き続ける周囲の風景や状況をあえて作り

「心」を動かし動かしまくることで

 

その中で唯一動かない「核」を見定めることができる

 

或いは動きすぎる世界の中で「心」が動く余地を与えない。

 

これは以前のブログ(「ヨガを学ぼう」と思った理由⑴ - 元センセー 日記)

でも書いた。

ヨガの先生の言葉

瞑想というのは一点に集中力を留めるというより

周囲の流れ続ける世界に抗うことなく

どっしりと安定して身を委ねて全てを受け入れる

という風に心を開き切ることだと思う

 

結局、

「流れる」状態を知らない(経験しない)限りは

「流れない」状態にすることなどは無理なんだ

という考えにたどり着く。

 

インドで「悟り」が生まれたわけ

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話を起点に戻す。

 

 

おびただしい数の攻撃的な車の流れ。

インド。

常時発せられる叫びにも似た激しく自己主張するクラクションの音。

インド。

鉄の錆と油とそこらじゅうに漂うゴミと熱気を持った人間の汗がぐっちゃになった受け入れがたい異臭。

インド。

そして湿気を含んだひどい暑さが逃げる場所は無く、コンクリートで更に熱せられて完全に頭をノックアウトさせる。

インド。

 

まさに、カオス

 

ほんの数秒で五感をめちゃくちゃにされる感覚は

暫く見なかったテレビを1か月ぶり点けた時に襲われる

あの一方的で、意味不明で、不快な感覚に似ているかもしれない。

 

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ここは

自分が動かずとも

常に「流れる」状態だ。

 

だから、寧ろ、インドで

 

「瞑想」が「YOGA」が「仏教」が生まれたのか?

 

「悟り」という思想が生まれたのか?

 

 

自分の「心」以外に清閑さの拠り所がないのか?

 

 

インド人は何考えているんだろう。。

 

 

つづく

 

 

 

「ヨガを学ぼう」と思った理由⑵ ~「目」が表すモノ~

インド半年の旅も終盤

 

残り2週間は

西海岸カルナタカ州から東海岸の都市チェンナイにバス移動して

そこから海岸線沿いを北進して、友人のいるオリッサ州に行って

最終的にはマザーテレサの「死を待つ人の家」でボランティアする予定だった

既に飛行機やバス、電車のチケットも手配していた

 

のだけど

 

アシュタンガ・ヨガ発祥の地「マイソール」で

飛び込み参加した朝夕2回のクラス

 

そして

 

翌日移動した世界遺産の地「ハンピ」で

飛び込み参加した朝のクラス

 

このたった3回の実践と

グル・ジ(先生の意)の「目」

YOGAを「学ぼう」と決めた

 

「目」

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普段から

「いい意味」でも「面倒な意味」でも

人の「目」は非常に興味がある

 

例えば

友人と2人でカフェで向かい合って話してる時

相手の興味関心の羅針盤の北を表す「目」が

 

自分でなく

手元のスマホ

外の風景や

或いはもっと遥か遠くを指しているとしたら?

 

「2人」という状況で

本来はお互いに興味を示し合って

会話を弾ませるべき状況にも関わらず

そうなっていない

(「~べき」こういう固い思考が自分を苦しませている)

 

それに気付くや否や

 

気弱な私は

 

「この人は私といても楽しくない」

「この人が楽しくないのは私のせいだ」

「私が今ここにいてもいなくても変わらない」

「私がいる意味はない」

 

と直ちに自分の存在を否定し始めるだろう

自分を保てなくなる

 

私は

自分の存在理由は自分でなく他人の判断に依る

という思考パターンに陥っている

(社会に手玉に取られてるのか。)

 

 

かわいそうでしょう?

 

目を見て話が出来ない訳

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人の「目」を見て話が出来ない

という人がいるように

 

そういう人は

「相手の目」=「自分の評価」

という思考に陥っている(追いやられてる)

 

ましてやこういう人は自分に自信が無いのだから

その評価を直視するのが怖いに決まっている

 

始めから「評価」がCかD(楽しい2人の時間を作れず

相手が自分に興味を持たない状況)なのを分かっているから

 

そもそも

 

成績簿をあけない(相手の「目」を見ない)

 

傷付くだけだから自分で見たくないのだし

何よりそういう成績簿を人に見せたくない

(第三者に、私のせいで相手は無駄な時間を過ごしているという状況をまじで悟られたくない)

 

相手の「目」を見ないというのは

不戦勝しているということ

最初から諦めている

「自分を」諦めている

 

「勝ち」にこだわり過ぎて

「負け」を極端に恐れるあまりに

土俵にさえ立てない

 

スポーツで1番大切なのは

「勝ち負けじゃない」ってことを

分かっていない

 

自分の評価は

他人が決めるもんじゃない

ってことを分かってない

 

いやそもそも

「自分の評価」なんて

どうでもいい

(どうでもよくない時もあるけど決して1番大切なモンじゃない)

ってことを

全くもってわかってないんだ 私は

 

希望から遠ざかる悲しい思考

 

過剰な自己愛 の逆説

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そして、

 

そもそも(そもそもばかりだけど) さっきから

 

「私・私・私・私・私・私・私・私・私・・・」

「自分・自分・自分・自分・自分・自分・自分・・・・」

 

と「例えば・・」のくだりから数えると

16回も言ってる

 

そう、「自我が強い」のだ

 

自分に自信が無いのは

「自分」があまりにも愛おしくて

「自分」があまりにも特別扱いされたくて

「自分」が何よりも一番大切だから

 

「自分」の期待以下の評価をされて

かわいい「自分」が傷つけられるなんて事は絶対に許さない

 

だから

相手が評価する前に

「自分」で「自分の評価」を予め落としておく

そうすれば他人に傷付けられることもない

 

しかし

 

本当のところで大切な物を失って

深く傷付いていることに気付いていない

或いは

見てみぬふりをしている

 

これは本当に生きるのが苦しくなる

 

 以下、太宰治道化の華」より

人から言われたくないが故に、まず、真っ先におのれの身体に釘を打つ。これこそ、卑怯だ。もっと、素直にならなければいけない。ああ、謙虚に。                   

 

彼らの心の中には、混沌と、それから、訳のわからぬ反撥 とだけがある。或いは、自尊心だけ、と言っても良いかもしれぬ。しかも、細く研ぎ澄まされた自尊心である。どのような微風にでも震えおののく。侮辱を受けたと思いこむや否や、死なんか、ともだえる。葉蔵がおのれの自殺の原因を尋ねられて当惑するのも無理が無いのである。-なにもかもである。

 

 いい目のグル・ジ達 

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話が大幅に脱線し過ぎて

むしろ快走♪ すんません

 

 

結局何が言いたいかというと

 

私の出会ったヨガの先生は

「いい目をしていた」

ということ

 

「いい」というのは

自然で装っている感じがなく

 

例えば 

「目」の中に何か意味を持たせて

「プレゼンでは目線が大切!」みたいな指導を受けた新入社員が

「相手の目を見て話すことによる効果!!」みたいな小賢しいたくらみを含んだ

ギロギロとしたわざとらしく不自然な

「目」じゃない

 

もっと

「そこに置くべき時に置かれるべき物をただ置いた」

 ような感じ

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私達が普段全く第三者を意識をしないでやってることって何だろうか?

歯磨き?トイレットペーパーを巻き取る動作?か?

 

彼ら(グル・ジー)は

「目」を、「見る」ということ以外に

余計な役割を持たせていない

 

「見たいから見た」

「見たくないから見ない」

 

そして、

彼らは私と話をしている時

 

あまりにも真っすぐに

純粋に

私の目を見ていた

 

 

彼らだけでなく

インドで出会ったほとんどの人々が

そういう「目」をしていた

 

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心からそういう「目」の人になりたいと思った

 

 

なかなかYOGAに近づかない・・

 

つづく