元センセー 日記

元都内公立小学校教師、現在は色んな考えや世界に触れて変わっていく自分とその周囲を観察するのが楽しい.

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「ヨガを学ぼう」と思った理由⑵ ~「目」が表すモノ~

インド半年の旅も終盤

 

残り2週間は

西海岸カルナタカ州から東海岸の都市チェンナイにバス移動して

そこから海岸線沿いを北進して、友人のいるオリッサ州に行って

最終的にはマザーテレサの「死を待つ人の家」でボランティアする予定だった

既に飛行機やバス、電車のチケットも手配していた

 

のだけど

 

アシュタンガ・ヨガ発祥の地「マイソール」で

飛び込み参加した朝夕2回のクラス

 

そして

 

翌日移動した世界遺産の地「ハンピ」で

飛び込み参加した朝のクラス

 

このたった3回の実践と

グル・ジ(先生の意)の「目」

YOGAを「学ぼう」と決めた

 

「目」

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普段から

「いい意味」でも「面倒な意味」でも

人の「目」は非常に興味がある

 

例えば

友人と2人でカフェで向かい合って話してる時

相手の興味関心の羅針盤の北を表す「目」が

 

自分でなく

手元のスマホ

外の風景や

或いはもっと遥か遠くを指しているとしたら?

 

「2人」という状況で

本来はお互いに興味を示し合って

会話を弾ませるべき状況にも関わらず

そうなっていない

(「~べき」こういう固い思考が自分を苦しませている)

 

それに気付くや否や

 

気弱な私は

 

「この人は私といても楽しくない」

「この人が楽しくないのは私のせいだ」

「私が今ここにいてもいなくても変わらない」

「私がいる意味はない」

 

と直ちに自分の存在を否定し始めるだろう

自分を保てなくなる

 

私は

自分の存在理由は自分でなく他人の判断に依る

という思考パターンに陥っている

(社会に手玉に取られてるのか。)

 

 

かわいそうでしょう?

 

目を見て話が出来ない訳

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人の「目」を見て話が出来ない

という人がいるように

 

そういう人は

「相手の目」=「自分の評価」

という思考に陥っている(追いやられてる)

 

ましてやこういう人は自分に自信が無いのだから

その評価を直視するのが怖いに決まっている

 

始めから「評価」がCかD(楽しい2人の時間を作れず

相手が自分に興味を持たない状況)なのを分かっているから

 

そもそも

 

成績簿をあけない(相手の「目」を見ない)

 

傷付くだけだから自分で見たくないのだし

何よりそういう成績簿を人に見せたくない

(第三者に、私のせいで相手は無駄な時間を過ごしているという状況をまじで悟られたくない)

 

相手の「目」を見ないというのは

不戦勝しているということ

最初から諦めている

「自分を」諦めている

 

「勝ち」にこだわり過ぎて

「負け」を極端に恐れるあまりに

土俵にさえ立てない

 

スポーツで1番大切なのは

「勝ち負けじゃない」ってことを

分かっていない

 

自分の評価は

他人が決めるもんじゃない

ってことを分かってない

 

いやそもそも

「自分の評価」なんて

どうでもいい

(どうでもよくない時もあるけど決して1番大切なモンじゃない)

ってことを

全くもってわかってないんだ 私は

 

希望から遠ざかる悲しい思考

 

過剰な自己愛 の逆説

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そして、

 

そもそも(そもそもばかりだけど) さっきから

 

「私・私・私・私・私・私・私・私・私・・・」

「自分・自分・自分・自分・自分・自分・自分・・・・」

 

と「例えば・・」のくだりから数えると

16回も言ってる

 

そう、「自我が強い」のだ

 

自分に自信が無いのは

「自分」があまりにも愛おしくて

「自分」があまりにも特別扱いされたくて

「自分」が何よりも一番大切だから

 

「自分」の期待以下の評価をされて

かわいい「自分」が傷つけられるなんて事は絶対に許さない

 

だから

相手が評価する前に

「自分」で「自分の評価」を予め落としておく

そうすれば他人に傷付けられることもない

 

しかし

 

本当のところで大切な物を失って

深く傷付いていることに気付いていない

或いは

見てみぬふりをしている

 

これは本当に生きるのが苦しくなる

 

 以下、太宰治道化の華」より

人から言われたくないが故に、まず、真っ先におのれの身体に釘を打つ。これこそ、卑怯だ。もっと、素直にならなければいけない。ああ、謙虚に。                   

 

彼らの心の中には、混沌と、それから、訳のわからぬ反撥 とだけがある。或いは、自尊心だけ、と言っても良いかもしれぬ。しかも、細く研ぎ澄まされた自尊心である。どのような微風にでも震えおののく。侮辱を受けたと思いこむや否や、死なんか、ともだえる。葉蔵がおのれの自殺の原因を尋ねられて当惑するのも無理が無いのである。-なにもかもである。

 

 いい目のグル・ジ達 

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話が大幅に脱線し過ぎて

むしろ快走♪ すんません

 

 

結局何が言いたいかというと

 

私の出会ったヨガの先生は

「いい目をしていた」

ということ

 

「いい」というのは

自然で装っている感じがなく

 

例えば 

「目」の中に何か意味を持たせて

「プレゼンでは目線が大切!」みたいな指導を受けた新入社員が

「相手の目を見て話すことによる効果!!」みたいな小賢しいたくらみを含んだ

ギロギロとしたわざとらしく不自然な

「目」じゃない

 

もっと

「そこに置くべき時に置かれるべき物をただ置いた」

 ような感じ

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私達が普段全く第三者を意識をしないでやってることって何だろうか?

歯磨き?トイレットペーパーを巻き取る動作?か?

 

彼ら(グル・ジー)は

「目」を、「見る」ということ以外に

余計な役割を持たせていない

 

「見たいから見た」

「見たくないから見ない」

 

そして、

彼らは私と話をしている時

 

あまりにも真っすぐに

純粋に

私の目を見ていた

 

 

彼らだけでなく

インドで出会ったほとんどの人々が

そういう「目」をしていた

 

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心からそういう「目」の人になりたいと思った

 

 

なかなかYOGAに近づかない・・

 

つづく