元センセー 日記

元都内公立小学校教師、現在は色んな考えや世界に触れて変わっていく自分とその周囲を観察するのが楽しい.

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家族を捨てる日本人~幸せとは~

「・・わが愛するインドよぉ。

また会う日まで、それまで泣くな、

お互い元気にやろう。」

 

インド半年滞在を終え

私は遂に帰国の途についた。

 

*このブログは1か月前に下書きしたものです。

 

 上海空港にて

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道すがら

経由地の上海で

例によって飛行機に4時間の遅れが出た。

中国東方航空では日常茶飯事)

 

21番ゲート前はため息つく人々で溢れかえっていた。

 

私はその後の乗り換えも帰国後すぐの予定もなく

何時間遅れても平気、という

余裕な態度で

どっしりと椅子に腰かけて

瞑想でもしようかと思ってた。

 

 

ふと隣に座っている

黒のスーツを着た男性に目が行った。

 

なぜなら彼は「インド人」だから。

 

 

デリーを後にしてからというもの

周囲はすっかり

モンゴロイドののっぺり顔で

物静かなアジア人。

 

なんだか寂しく物足りなく

やっぱりスパイスが足りないスープみたいな

インドの一瞬で五感をどっかに扇動しちまうみたいな

「刺激物」を欲する自分がいた。

 

 

そんなんで

単に「インド人」というだけでも

私はこうふんした。

テンションが上がった。

 

 

 インド人とおしゃべり

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そして勿論話しかけた。

 

私「ケーセーホ?(お元気ですか?)」

印「イエス、ファイン。(元気だよ)

  ウェア アーユー フロム?(どこから来たの?)」

私「メ― アッサム セー(アッサムから来たよ)」

*アッサムはインド北東部のモンゴロイド系民族が多い僻地

印「アチャチャ(そうなんだ)」

 

みたいに、例の如く、

つたないヒンディー語で軽く嘘つく。(御愛嬌)

 

彼はムンバイ近郊の町出身で

ソフトウェア開発ビジネスのマネージャー業務として

10日間中国上海で仕事をして今日帰るのだそう。

 

でも、この後「デリー➡ムンバイ」の便があるから

飛行機の遅延をかなり気にしていて、そわそわしている感じだったけど

会話を始めるとさすが話し好きのインド人らしく

一瞬でそわそわもどっかに飛んでいった様子。

 

 

私「大変だね、でもこの航空会社はいつも遅れるんだよ。」

印「そうなの?どうして?」

私「うーーん、多分こういうの習慣なんだよ。」

印「どうして?」

私「中国人はのんびり屋なんじゃない?」

印「なんで?」

私「・・・・・・」

印「・・・・・・」(私の目をジー―――とみて回答待つ。)

 

ああ、この質問攻め。

インド人のねっちねちのしつこいまでの好奇心。

「胸を張って生きよう」と思わせてくれる程に彼らは無垢で高潔な精神だ。

 

*先日、私はインド人ほめ過ぎと言われた。。

 

 

懐かしくて、うれしくて会話は弾む。

 

私「日本は行ったことある?」

印「あるよ!京都、大阪!」

私「どうだった?」

印「アメィジング!!(素晴らしいい!!)」

私「何が?」

印「カンフーがすごい!」

 

笑!日本じゃないし!

 

話題を変えた。

 

私「でも、日本はいいことばかりじゃないよ。日本は過去10年間、自殺者は毎年3万人だよ。」

 

私はこの事実をあらゆる機会に人々に話した。

外国人に日本の良い面だけを伝えてお国の宣伝みたいなことはしたくない。

 むしろ

現代社会の大車輪の「歪み」が生み出した

我が国の光当たらぬ陰に追いやられた

大量の 社会的、経済的そして精神的「弱者」たちを

どうか知って欲しい。

 

 

この世界は間違っていると誰でもいいから伝えたい。

 

同じ轍を踏まないで反面教師にして欲しい。

 

そして、いち日本人から世界に向けてのSOSでもある。

 

 

 

彼は私の話に真剣に耳を傾けてくれた。

 

そして

「なぜ日本はそんなに自殺が多いのか」

ということについて色々と意見を交わしたのだが、

その中で彼と交わした

「家族との関わり方」についての話をすこし。

 

家族との関わり方

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私「私は今東京で暮らしてるよ」

印「誰と一緒に?」

私「一人だよ」

印「え?兄弟や家族は?」

私「いや、両親は別の地域で暮らしてて、兄二人は結婚して家を出てそれぞれの家庭を持っているよ。」

印「どうして?どうして一緒に暮らさないの?」

どうしてなんだろう。よくわからない。

私「私は東京で仕事が見つかったからかな。兄はもう結婚したし仕事があるからかな。。」

一緒に暮らさない正当な理由が見つからないんだろうか?

 

印「じゃあ、君の両親は二人で暮らして年を取っていくんだよね?もし、両親が介護が必要になったらどうするの?」

ドキッとした。考えたくなくてほったらかしにしていたから。

 

私「うーん、その時は私か誰か兄弟が家に戻ると思うけど。。」

印「でも、どうして日本人はみんな両親を捨てて、自分たちの家を新しく作ったりして外に出ていってしまうの?」

「捨てる(Throw)」という言葉を食らったんだ。

 

印「以前、僕が会った日本人も皆、20歳前後で家から出て個人個人の家をもって、自分の両親は年を取ったら施設(老人ホーム)に入れると聞いたよ。どうしてなの??」

私「・・・・・・。うーーん。両親がいる実家から出て自分で生計を立てるのが、自立の一つのステータスとして世の中で認識されているのかなあ。そうしなければ精神的に成熟しないような気がする。そんな雰囲気があるよ社会に。」

家庭の事について今まで一度も真剣に思考を巡らせたことが無い自分を冷酷に思って恥じた。

 

印「インドではここが日本と大きく違う所だと思うよ。

僕らは、自分を育て、美味しい料理をくれ、いい教育を受けさせ、たくさんの幸せをくれた両親を捨てたりは決してしない。たとえ仲が良くなかったとしてもね。

今、自分はお金とを稼ぐことができるから両親にその恩返しができる。

今度は僕たちから両親にたくさんの幸せをあげる番だし、自分の子供たちにも両親がくれたようなたくさんの幸せを授ける責任がある。

私「うん。」

当然何にも言えない。

 

印「でもこれは重荷じゃない。これが本当に幸せなんだ。家族と一緒に幸せを感じられる時が、1番満たされていて生きていてよかったと思えるよ。」

私「うん。」

印「ケーキは一人で食べるよりみんなで食べたほうがおいしいから分け合うんだ。」

 

 

偽善者

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私はいつも

「世の為に自分を役立てたい」

「人の幸せを心から願えるようになりたい」

などと言っている・・・・

 

全く、足元が見えてない。

灯台下暗しもいいとこだ。

 

自分の両親や家族の「幸せ」をさし置いて

なにが「世界平和」だ。

 

身近な人の存在をすっ飛ばし家庭の平和も無いのに

世界だなんて笑ってしまうだろう。

 

結局のところ私は単に

「他人の幸せを願う」という

高尚な精神に憧れていただけだったのか?

 

「いい人」に思われたいという自己顕示欲?

 

「人の為に自分の人生を使う」という自己犠牲は同情を誘うため?

 

 

だとしたら。

 

自分はあの頃の「個人主義者」から

根本的に全く変わっていない。

 

 

何年もの月日をかけて必死に苦しみもがいたはずなのに

全く成長してない自分を見つけてしまった時ほど

深い虚無感に襲われることはない。

 

傲慢。

だから自殺思考に陥ったのかもしれない。

 

 全く食えねえ奴だ自分は。。

 

私のように

善意の奥に自己犠牲精神を隠した人々の集まりは

一見すると「みんなの為といって」

団結しているように見える。

 

でも

その一人一人が隣の友人を出しおいて

成功してやろう。

こいつみたいにはならないようにしよう。

と胸の内で煮えたぎらせている。

 

 

そういう集団は

ひたすら

短期的・一時的な

欲や感情に流され

 

長期的・全体的な幸福や本質を

ことごとく見落とす。

 

そして一歩、歯車が噛み合わなくなると

全体が仲間割れして共倒れし得る危険な集団だ。

 

 

他人の幸せを心から喜べるのか

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現代人で

「公(他人)の幸せを自分の幸せに感じた経験がある人」

がどれだけいるんだろうか。

 

自分が出演していなくても

劇全体が仲間によって素晴らしいものになった時

本当に心から喜べるか。

 

見返りを求めない親切や献身さを

信じることが出来るのか。

 

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                              映画「モモ」より

↑こんな風に

「みんなが幸せな時に自分も幸せを感ずる」

 

つまり「公益の喜び」。

 

この時に働く脳って

 

「ワタクシの幸せ」の時に働く脳と

違うんじゃないかと思う。

 

 

 

本当の持続的な「幸せ」ってのは

 

自分のコップに水を注いでいくように

 

 うまいモン食べた、恋人できた、先生に褒められた、新しい服買った、昇給した

 

みたいな 個人を何かで満たしていく過程で感じられるもんじゃないと思う。

 

 *ここでは生理的欲求が満たされた時に感じるような幸せでない

もっと高次元の人間独自の精神的な幸せのようなものを指す。

本当に幸せになれる時

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金木犀の香りに気づく

 

人々の安らかな生の営みを愛おしく思う

 

この世に生まれたことに感謝する

 

 

 

いつもそこにあるんだけど

 

当たり前にあるから気付きにくくて

 

無関係だと思っていたそれが

 

実は自分に密接に関係している。

 

 

 

「わたし」という存在は個体では存在しえない

身も心も因縁によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから無常なものである。

 

仏教聖典」(仏教道教会刊) 第二章第一節 「変わりゆくものには実体がない」より

因縁=ゆかりや関係性の意。

 

私たちが普段何気なく認めている「私」は本当は

それ個自体ではつかみどころがないもので

外的要因や周囲との関係性に依ってしか認識できない。

というのは仏陀の説かれた真理。

 

自分の畑で美味しい野菜を作りたいなら

いい水が必要で

いい水は川の上流の環境が良くなければいけない

いい土が必要で

いい土はその周囲の木々や水はけや動物など環境全体が良くなければいけない

 

「わたし」が幸せになろうと思うのなら

「わたし」の周囲の人々が幸せであるかに配慮するのは当然なんだ

 

 

私たちはこの世のあらゆるバランスの中で生きている

一つのピースに過ぎないから。

 

 

 

 この当たり前の「幸福論」は実は教育による気がする。

 

教育の目的は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、心身ともに健康な国民の育成を期すること。

 

文科省教育基本法」より

 

人格の完成という所だけに注目するなら、

関係性を理解するときに気付くだろう。

 「私は不完全だという認識が人間を完成させることなのだ」

と。

人間は動物のように生きていれば幸せになれるとは思わない。

 

眉毛がそのいい例だ。

眉毛の役割は汗が目に入らないようにする点もあるが

「人の表情に明らかに大きな変化を加えるという点」から

ヒトだけに著しく発達したと考えられる。

 

私達は否定しようが何をしようが「社会的生物」なんだ。

表情から情報伝達し人と関わるようになっている。

 

 

 

 

「社会的幸せ」

 

これはもはやいつもの「幸せ」という言葉の表す感情では無い。

 

大乗仏教的幸福」とでもいうのか。

 

頭が整理できない。思考が散らかりっぱなしで綴ってごめん。

*日本に来てから文章が書けない。

 

つづく