元センセー 日記

元都内公立小学校教師、現在は色んな考えや世界に触れて変わっていく自分とその周囲を観察するのが楽しい.

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他人に人生を委ねている人間の苦悩

いつも戦っていなければいけないというのはつらいですね

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12年間。

自分の年齢の約半分の期間競技の世界にいたからか

自分の生まれつきの負けず嫌いからか

現代の比較競争教育の賜物か

 

全てが相まって

私は常に何かと人と優劣を付けなければ

自分を保てないらしい。

 

 

 

 

 

戦士がいざという時に自分を守ってくれるだろう

鎧を脱ぐのは容易いことじゃあない

その行為は死にも値する。

 

何層もの強力なプロテクターをまとった心は固く重い

そして中に守られた心はあまりに繊細で儚い

 

誰にも傷つけられまいと

私は必死に警戒し、疑い、恐れ、怒る。

 

 

戦いというのは勝っても負けても

どんな過程においても酷く自分を惨めにする。

 

負ければ自分の存在は否定される。

くだらないけど、遊びでやるトランプなんかでも

私はその勝敗にこだわり負ければ

「勝ったものに服従するか或いは存在価値が無い自分を消したい」と思う。

 

逆に勝つと優越感を握りしめたいという衝動と

「それは最低の人間がすることだ」と戒め

しかし「見下すという精神が血潮にヒタヒタと流れている自分」を心から軽蔑する。

 

 

今まで誰も

「卓球(を競技としてやっていた)で君の存在価値が決まるわけじゃないよ」

「勝ち負けは人生でそんなに大切じゃあないよ」

と教えてくれなかった。

言っていたとしても、何かの勝敗、優劣が私への態度や扱いに大きく影響していたのは間違いなかった。

 

大学在学中にはそのスポーツ競技の修羅から逃げ出したくて

「芸術だ」「芸術こそがありのままの自分でいられる場所だ」

と信じて飛び込んだ「デッサン基礎クラス」。

出鼻を折られるように終了後に全員の絵を前に並べて

左が1番「優秀」右に行けば行くほど「劣」という風に扱われた。

 

もう何にもしたくなかった。

 

何も出来なかった。

自分で自分の価値を判断できるような人間としての教育を受けなかった。

 

とにかく何かにしがみつき誰かに自分をほめて、認めてほしくて、必死だった。

そうしないと

価値のないだろう自分の存在は遂に無くなってしまうと思った。

一言も話をしないで3日が過ぎた時、自分が透明人間じゃないかと本気で思った。

 

他人に人生を委ねている人間の苦悩

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ここまで書いて来てさんざん

「周囲のせいでじぶんはこうなった」

「周りは助けてくれなかった」

と言っているけど

 

 

これらの責任は全て

私が今まで自分でひとつも判断せずに

「自分の判断、評価、つまり人生そのものを人に委ねてしまった」からに間違いない。

何を食べるか、何を知るか、何が大切か、何をしたいか。。

「あたしゃ、こう生きる!」と一度出も言ったことがあったか。

 

 

他人に人生を委ねている人間の苦悩だ。

 

たとえ、競技の世界にいる人でも、自分で判断している人は目の前の勝敗に一喜一憂することは少なく、自分の行為の結果としての勝敗を健康的に受け止めることが出来ている。

 

この殺し合いのらせん階段から抜けるには

自分自身で自分の人生を歩く以外ない。

と思う。

 

つづく

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