本来の人間生活の営みは?
ラダックに住んでいた今年の6月頃、
前半の約3週間くらい、
簡単に説明すると、
「障害を持った人とそうでない人も
一緒にラダックを良くするための活動をしよう!」
みたいな感じ。
障害のある無しの分け隔てなく、
例えば、盲、聾があってもそれに対して極端に手厚い扱いをしたり
専門家による対応が必要なもの、
などと捉えないってこと。
■補い合うことが人間本来の普遍性
その人の個性を認めるってことは、
年齢、経験関係なくできることでしょ。
例えば、私は話を聞くのが苦手な生徒でしたから、
いつも隣の友人に
「先生今なんて言ったの?」
とたずねて自分から助けを求めることを
何の罪悪感なく、
むしろ、「こういうボケもご愛嬌でしょ?」
みたいに思ってたし、
隣の子も「だから~」
みたいに毎回教えてくれていましたし、
そのうち、メモをくれるような配慮もしてくれていた。
他にも、例えば、山登りに行くと、
重いものを持つのが苦手(というかそれだけの力がない)
早く歩けない、
キャンプしても火をたけない
みたいな人それぞれの違いがあって、
それを当たり前のように補うことが出来るのが
人間独自の営みだと思う
そうして、補い合いながら
人と人との関係性を認識し(気付く)
間を取り持ち、
「人間」たらしめるのだと思う。
それが本来の人間生活だし、
普遍的な人間社会。
■世代毎に境界線を引かれ接点をなくした
こんなに分割して、
わざわざそれぞれの分割したグループに役割分担
いや、「このグループはこうあるべきだ」
というような外部からの色付けを
強制的にされていた時代はあるのだろうか。
子供たちは、学校で
「年齢」
というたったひとつの要素で完全に上下分割される。
おかしいじゃないか。
社会に出たら全く年齢が同じだけの集団なんて無いのに。
結果・・
横1列に並ばせられた集団は
誰が1番か、だれがビリかという
「競争」「比較」「劣等感・優越感」
を育む最高の教育になる。
老人ホームに入れられた老人は
「介護される対象」
としての役割しか社会から期待されていない。
働く世代の雇用を生み出す源だから。
ぼけないで、自分で畑やって、
孫の世話もして
病院にも通わないで、
自宅で静かに老衰
なんてのは日本経済的に困るんだ。
■Out Of My Departure(自分の範囲外)
それと、専門家とそうでない人との境。
例えば、歌と踊り。
歌と踊りは小さな1歳の幼児でも、
90歳のおばあちゃんでも、
誰でもできるもの。
でも、今、みなさんは人前で歌ったり踊ったり
する機会ありますか?
あったとしても
「やだ、わたし下手だから」
とか言わないでできますか?
これは、
「上手い人=専門家・プロしか歌ってはいけない(踊ってはいけない)。」
みたいな常識が勝手にインプリントされているから。
歌や踊りだけならまだいい。
これが
「プロしか料理を作ってはいけない。」
「プロしか絵を描いてはいけない。」
「プロしか家を建ててはいけない。」
「プロ(きれいな人)しか町を歩いてはいけない。」
「プロ(学歴のある人しか)政治にさんかできない。」
となって
やはりこれも人人に劣等感を抱かせる
自分の手でやってみないで、人(プロ)に任せる
任せるってことは依存するってこと
依存するってことはコントロールされるってこと
誰に?
■メディアの役割
こういうインプリント(刷り込み)の大元の
「マスメディア」(新聞、ラジオ、雑誌、とくにTV)
に。
TVに出るのは女優、男優、面白い人、プロの人。
こういう人が善で、
バカにされたり、誹謗中傷にさらされている人は悪。
メディアの流す情報、特にNHKは
公正・中立に見えて(いやみえないか)
ものすごく偏っている。
まず世界中、日本中でも毎日起きる莫大な数のニュースから
どんなニュースを選択し
公に放送するという時点で
何かしらの上の人の思惑が反映される
プラス放送の仕方、取り扱う程度など
中立的な放送はありえないでしょう。
■人工的な劣等感生産
私たちが感じる
「私なんか出来ない」
「あの人よりも自分はダメだ」
「自分で何も決められない」
という苦しい劣等感。
時に生きるのさえ厭になる
こういう感情は上述のTVの刷り込みから来ている
本来持たなくていい感情。
勝手にそう思考するように私たちは
情報によって誘導されている。
なぜ?
上のお偉いさんは、TVなんて絶対見ないでしょう。
管理する側ですから。
私たち民衆は「管理されやすいように」
より無知で
より単調で
より個人主義で
より他人に対して懐疑的で
より競争心が高くて
より自分の人生を他人任せにするように
仕向けられている。
■PAGIR
話を元に戻すと、
ラダックのPAGIRがやっている
INCLUSION(統合)
っていう力は
多分、私たち民衆が
草の根レベルの私たちの家族、親類、地域にある
本当の「幸せ」を創り認識するときに
1番大切な力。
実際、ボランティアの時に
障害があるから特別扱いだとか
「かわいそう」という感情の中にある見下す気持ちは
彼ら(メンバー)には一切感じなかった。
そもそもラダックという地域自体が
様々な年齢、職業、思想が絡み合って
それを「認め」、「補い合う」こと自体が
当たり前のこととして生活の一部として流れている。
お金を出したから「優遇」されるとか、
お金無しの「親切」を懐疑的にみてしまう
私たちは、生物としての人間の本来ある
社会的な生き方から
大きく逸脱してしまっているのかも。
■希望さえあれば
「希望」を無くしたら
私たちは何があっても生きていけない。
この「自殺大国」の烙印も
何かに仕組まれたものだとしたら、
それを恨むのでなく
「希望」をもって
不服従したい
「希望」さえあれば・・・
つづく