元センセー 日記

元都内公立小学校教師、現在は色んな考えや世界に触れて変わっていく自分とその周囲を観察するのが楽しい.

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インド人⑵ @南インドマイソール

朝9時ころにも

太陽光が入らない

外部との接触が絶たれたような部屋でも

外の騒々しさを感じることができたので

やっと起きた

 

おもむろに初日のYOGAの早朝クラスを逃したことに気づく

「まあ、いっか」

という楽観さは南インドの穏やかな時間の流れからきたのだろうか

 

晩御飯に食べた黒くなったバナナの皮を手に持って

外に出ると一気に脳みそがかき混ぜられるような

音と映像と臭いの混雑

 

露店 

昨日、チャイを飲む為のカップをもっていて

それを使いたかった

「チャアハ イディア?(チャイありますか?)」

「アウトゥ(YES)」

「ベコー(ください)」

 

いつも牛のように無表情で

むしろ苦悶の顔してる

感情を読めない彼らが

笑みを浮かべるのは

決まって彼らの言葉で外国人が話しかけた時だ

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(だからと言って逆に「ハーイ(^O^)/コンニチワ」

と日本語で話しかけられると怪しく思ってしまうのだけど)

 

ふと奥の広場に目をやると

 

朝ごはんを手で食べる

地元のおっちゃん達でにぎわっていて

なんとも愉快そうだった

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その雰囲気に浸りたくて

「イディリー」(米粉の蒸しパンの南インド伝統料理)と

「チャドニー」(ココナッツベースのドロッとしたおかず)

を注文した

 

私はいつも、それが何なのかわかっていても

「これは何?」と

わざと聞く

そうすると、会話が始まるし

会話をするとその人の人柄が見えてくる

 

その人人の「こえ」も「しゃべり方」もみんな違っていいんだよなぁ

 

インド人のゴミに対する意識 

その時、バナナの皮を左手に持っていて

周りに牛や馬も見当たらなかったので

「土に捨てれば堆肥になるし」

と思って何気なくその場にポイした

 

「!?」

と隣の赤いシャツの太った穏やかな顔の

おっちゃんが表情を変えた(と思った)

「★◆##$★☆!!!」

何か私に言っている?

けどわからない

今地面にポイしたバナナの皮を指差している?

にらまれた?

 

そして誰かを呼んで

店の人らしき細いインド人が来て

 

その地面に散らばったバナナの皮を

拾って、ひろって・・・

どこかに片づけた

 

この時のショック!!わかりますか?

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私の中では

インド人はゴミがそこら中に溢れている状況は

日本人がコンクリートに囲まれたオフィスにいても

それに違和感を感じず

むしろ快適とさえ思ってしまうように

彼らもそれを当然のように感じてしまう

一種の病的状況で

いちいち不快感や疑問をもつものではないと思っていた

 

だからこそ、

私はラダックに行ったときは

ラダックの人々にこの違和感に「気づき」を与えるために

わざわざ他人のごみを拾ったり

目の前で捨てた人に注意したり

自分の出したゴミの袋をバックからブラブラさせて

歩いている

 

だからこの赤いシャツのおっちゃんの

行動は

「気づきのある人がいる!」

という希望のショックを与えたんだ

 

でも、確かに南インドでは

竹を束ねた箒で細めに道路や

歩道の隅をはいている姿をみかけていた

 

同時に自分が捨てたゴミを

人に拾わせたという羞恥のショックも相まって

 

この出来事は私の中で大きく

記憶に残るでしょう

 

「祈り」の意味 

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注文した食事が来た

わたくし事だけど、私は食前に

少しラダック式の祈りをする

「オマ フン ストンバ ラメ サンギャース リンポーチェ・・・」

簡単な祈りなのだけど

これは

「自分が食べる前に

まずは周りの神神や霊魂、

そして偉い方々(ラダックでは高僧)に

先にどうぞ召し上がってください

というような意味合いがある祈り

 

今年の8月頃にラダックのシェイ村に住んでいる時

ケイロンから「ヘミス祭」を観に

ホームステイ先のシェイの家に

偉いお坊さんや知人のご夫婦が滞在していた

 

お坊さんの名前は「ゲン・リグジン(ゲンは僧侶の意)」という

一緒にご飯を食べたり給仕したりするうちに仲良くなって

「ツェリン・ドルマ(私のラダック名)は自分の娘と同じようだよ」

と言って色々ないい話をしてくれた

 

そのいい話の一つがこの食前の「祈り」

 

例えば、食事だけじゃない、

美しい花の香りを嗅ぐ前

素晴らしい大自然の風景を見る前

大好きな人と再開する前

まずは自分でなく、

周囲の尊い霊魂や偉い方に

この幸せをお先にどうぞ

とおすそ分けする

 

祈り

祈りは私たち日本人にはあまり馴染みがないかもしれない

大多数が特定の宗教を持たない

いや寧ろ

目に見える物しか信じない「科学教」の私たちには

その存在を確認する術を見出せない事象に対して

極端に抵抗を示したり偏見を持つような気がする

 

「祈り」っていうのは

これをして本当にお偉い方々の腹が膨れるとか

誰かが救われるとかっていうものじゃない

 

「祈り」は

それをする人自身の「心づくり」の練習なんだ

と聞いた

 

身体づくりで大切なのが呼吸であるように

「心づくり」で大切なのは「祈り」なんだ

 

私たちの心(mind)は目に見えるもんじゃない

でも

本当に大切なものは目に見えない

 

足るを知るインドのおっちゃん達

少し酸味があるのが特徴のイディリーを

ほおばりながらおっちゃん達と喋っていた

 

ポトッ

 

とおかずのチャドニーと同じような

緑色のクリーミーな物体が上から落ちてきた

上を見るとカラス?のような

黒い鳥がお尻をぷりぷりふっている

 

ちょうど真っ白なイディリーにかかって

それはそれできれい

 

それを見るなり

おっちゃんはいきなり怒鳴りつけるように

二言三言叫んで

最後に上の鳥たちを

「フオオ!!!!!」

と言って追いはらってくれた

 

糞イディリーを廃棄してもらって

お金払って帰ろうとしたら

椅子を指差して「座れ」という

 

そしてすぐに新しい焼きたての

「ドーサ」(米粉のクレープ)を出してくれた

 

「ティケ??(いいの?)」

「ハーーーン!(No Problem)」

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そのドーサのおいしさといったら

味だけでないからね

おっちゃんの優しい気持ちも詰まってますから

「料理で心が満たされる」ってこういう事を言うんだ

 

チャイもくれた

 

エストゥ?(いくら?)」

食事を終えて値段を聞くと

「30ルピー(55円くらい)」

とあまりにも安い

というか安すぎて利益が出なくて

商いになっているのか?と思うほど

 

せいぜい、

彼らの生きていくのに

最低限の利益

(と、言えるのか?経費で終わりそう)しか

とらないというのか

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この露店を毎日毎日朝から夜までやって

地元の人々の腹を低価格で満たし

人々とおしゃべりし

たまに外人さんと話したり

地元の祭りを祝ったり

神に祈りを捧げたり

そうして彼らは生きて

人生を送っていくんだろう

 

子供や家族がいるのか分からないけど

養っていけるのかわからないけど

だれかの言葉を借りると

「これでいいのだ」

 

かつての日本人の美徳として

「足るを知る」

という言葉があったのだけど

 

現代の日本は

欧米諸国の大量消費を見本に

超消費、そして超廃棄国として

その地位は揺るがない

 

帰国したときにいつも感じる

「執拗なまでに広告が多い」違和感

 

車内、電柱、あらゆる壁という壁が

私たちの消費行動を煽るための宣伝で埋まっている

 

そしてやはり

本当に大切なものはそれらに埋もれて見えなくなっている

 

こんな日本人である私だから

こういうおっちゃん達の無垢な無欲さに

違和感を持ったり

たまに不信感を持ったり

してしまうのは本当に悲しい

 

同時にこういう人から

「人間とは」という根源を学べる機会が

まだ帰国までの10日間残されている

 

少し多めに50ルピー払い

その後 盲の物乞いに100ルピー置いて

心は晴れやかで

「リキシャーコンニチワ、リキシャー」

という騒々しさも何だか愛おしかった

 

*あと試したんですが、速足で歩くとあんまり声かけられません

 

つづく