人生初 死にかけた@蛭ヶ岳 後編
佐藤さんが撮影してくれた残り0.4kmの標識。この時かなり追い込まれた状況であったはず。(2017年4月)
今までずっとパラパラ降っていた雪は、いつからか風に混じって真横から小吹雪のようになっていた。
私たちは体温と気力を確実に奪われていた。
◆まさか「遭難」?
入山口に向かうバスの乗客は私達の4人以外誰もいなかった。裾野の町も雪がわずかに降っていた。(2017年4月)
私たち五人のパーティのうち、二人ヘッドランプがつかなかった。
一人は電池が切れ、もう一人は(ラダック人のSkarmaさんなのだが)持って来ていなかった。
私は幸運にも前日職場の上司に借りたヘッドランプおかげで手元の周囲1mほどが照らされていた。
それにしてもこんな最悪に近い状況を誰が想像していただろうか。
それにしてもこんな最悪に近い状況を誰が想像していただろうか。
今考えてもこの時かなり精神的に追い込まれていた。
ベテラン二人が仮に僅かでもこの状況を想定していたのなら、なぜ言ってくれなかったのか。
もう少しなにかしらの判断を早めにしていれば、
もっと危機感を醸成してくれていたら、、、、
こんなことにならなかったのに。。
しばし、自分の身の上の災難を受け入れられず、心中周囲を責め立てた。
自分たちの状況がどんどん悪くなり雪山遭難のプロセスが手に取るように分かった。
①油断におる準備予備知識不足
②他人任せのスケジュール管理
③想定外の急な天候の変化
④山路を失う
⑤チーム内分裂し統率を失う
⑥体力の低下
⑦体温低下
。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。
こんな時になぜだかふと
「やはり学習というのは机上の知識でなく、実感を伴った実践の中からでしか人間は体得できない」と私は確信した。
(この悟りがのちにどういう影響を与えるのか私には未だ分からないが)
残り100mだ。
あとすこしだ。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
そして遂に最悪のことが起きる。
◆残り0.1kmの限界
2日目の帰路で撮影したものだが、前日通った時と景色は一変していた。(2017年4月)
先頭でラッセル(雪道を作る大変な役割)を1キロ前地点から続けていた宮田さん、そして勇気のダイブを見せてくれたちあきさんが歩を止め何やら二人でその場に佇んでいる。
どうしたのだろうか。
「どうしたんですか?!」
「ごめん、もう体力限界」
「ごめん、もう体力限界」
え?
そんなことある?
いやいや。
あと少しなのに。
「お願いします宮田さん頑張って」
今は宮田さんだけが頼りなのに。
「いや、、、。。」
宮田さんが足下を指差す。
宮田さんが足下を指差す。
見ると、宮田さんが今まで装着していたスノーシューズが外れている。
板と靴の間に入り込んだ雪が固まって氷になり靴から外れてしまったそうだ。
しかも、それをつけ直すのには素手になる必要があるのだが、既に手袋が凍って手を出せないし、中の手自体も寒さで感覚がないそうだ。
スノーシューズは幅が広い板のような装備で、これを靴につけると雪床との接地面積が広くなるので、さほど沈まずに前に進める。
ただしその後に歩く人が普通の靴であると思い切り沈んでしまい、かなり困難な進行しなるのだが、それでも、ずっと宮田さんが道を作って来たことで、困難はあったものの道を失わずにここまでこられていた。
しかし、、
宮田さんの体力的ものだけでなく、物理的にも限界がきていたようだった。
「ここにかまくら作って助けを待とうか」
宮田さんが提案する。
宮田さんが提案する。
そんな。
こわいよ。
そもそもこの寒さに耐えられるのか?
もうだめなのか。。。?しばし、私たちは沈黙した。
◆神の啓示たる電波
「電話して助け呼べないですか?」
「その方がいいね」
「その方がいいね」
「誰か電話つながらないですか?」
こんな山奥で駄目元だが聞いてみた。
みんな凍った手先をこすりながら手袋から手を出し、おもむろに携帯をチェックする。
「だめ」
「電波ない」
「こっちもだめ」
「携帯がみつからない。。」
「電波ない」
「こっちもだめ」
「携帯がみつからない。。」
四人ともだめだった。
私は最も山で繋がりにくいSoftbankだ。
一応携帯をひらいてみた。
すると、メールが届いていた。母からだ。
「山登りどうだった?🤗無事着いた?」
なんと奇跡的に電波が入っていたのだ。
私はとっさに
「うん!元気だよ。全然平気。」
と送ろうとして いやいや、今はそれどころじゃなくて助けを呼ぶのが先だ!
と我に帰った。
と送ろうとして いやいや、今はそれどころじゃなくて助けを呼ぶのが先だ!
と我に帰った。
「電波あるあるよおお!!」
「119番?どこに電話したらいいですか?」
「あと少しだから、山小屋に電話しよう」
「あと少しだから、山小屋に電話しよう」
「番号は?」
「わからない。。」
「たしか、地図に書いてある。」
佐藤さんが持ってきたどでかい地図の下に手書きで書いてあったのだ。
「電話番号は090ー………。」
発信
たのむ
プルルルル
プルルルル
たのむ (オンマニパメフム)
「はい蛭ヶ岳山荘です!」
でた!!
でた!!
「今日予約していた佐藤です!あと100メートルのところなんですが遭難しました!
助けてください!道がわからないんです!ライトか何かでてらしてください!お願いします!五人います!!」
助けてください!道がわからないんです!ライトか何かでてらしてください!お願いします!五人います!!」
咄嗟に出た言葉は驚くほど冷静だった。
「わかりました!今行きます!」
助かった。助かったのか?わからない。
とにかく、私たちに光は見えたような気がする。
◆命の恩人おっちゃんの声
先頭を最後尾にいたウルトラランナー佐藤さんに交代し、私たちはとにかく再び動き出した。
動き出さざるを得なかった。
実はそこに3分止まっていただけで、私とSkarmaさん以外の三人はガタガタ震え出して低体温症の手前のような 状況に陥っていた。
後でわかったのだが、私とSkarmaさんは割とポッチャリ。
あとの三人。
特に佐藤さんに至っては骨と速筋と皮だけのような体型なのだからきっと、かまくらを作っていたなら佐藤さんが一番最初に凍っただろうし、私とSkarmaさんだけ生き残ったかもしれないね。など、皮下脂肪の大切さをしみじみ感じた。
現代社会では嫌悪される皮下脂肪は実はサバイブの中では重要なライフジャケットなのだ。(2017年4月)
とにかくそういうわけで私たちは立ち止まることができなかった。
歩を進める佐藤さんはスノーシューズが無い。
ズズズズ。
途端に雪の底なし沼に吸い込まれる。
今度は胸の下まで一気に沈む。
まだ油断してはいけなかった。
まだ、助かっていないのだった。
たとえ、山小屋のおじさんが方向を示してくれたとしても私たちはたどりつけるのだろうか。
電話をしてから10分くらいたった。
まだ、助けはこない。
ライトも見えない。
ライトも見えない。
私はとっさに上着に付けていたインドで買ったコンパスと温度計付きの笛を、ここぞとばかりに思い切りふいた。
ピーーーーーーーーーーーィ。
ピーーーーーーーーーーーイ。
「ォォィ!!」!?
ピーーーーーーーーーーー!
ピーーーーーーーーーーー!
「おおおおい!」
どこからか力強いオッチャンの声がする!
「あっちだ!」
宮田さんがライトを見つけた。
宮田さんがライトを見つけた。
「五人とも大丈夫かああ!?」
オッチャンが遠くでまずは怪我人病人の有無を問う。
オッチャンが遠くでまずは怪我人病人の有無を問う。
「だいじょうぶでーす!」
宮田さん(以後スノーシュー:SS)が答えたが、あまりにも呑気な感じに聞こえたのは、自分が相当焦っていたからか。
宮田さん(以後スノーシュー:SS)が答えたが、あまりにも呑気な感じに聞こえたのは、自分が相当焦っていたからか。
この声で私たちは蘇生した。
SSが再び先頭を行った。
昼飯もロクに食わず、歩きっぱなしの私たちの体力はかなり限界地点であった。
しかし「底力」というのか「火事場の馬鹿力」というのか、全員息を吹き返した。
私もゾンビのように雪の上を這いずり回って、途中でスノーシューズがとれたSSを
「先行くよ!!」
と追い越し、オッチャンの声のする方向にもがいた。
頭の中ではなぜか呪文のように「断末魔の叫び」「断末魔の叫び」「断末魔。。。」と唱えていた。
「どこおおですか!?」
「こっちだ頑張れ!」
「こっちだ頑張れ!」
「ごめんなさい!」
「ご苦労さん!大丈夫!頑張れ」
「ご苦労さん!大丈夫!頑張れ」
オッチャンの声は天の声のようだった。
天声人語。
みんな最後の力を振り絞った後に出た絞りかすを更に絞って「生」へと進んだ。
おっちゃんの姿が見えた。
鈴をならしている。
ライトは電池が切れてしまったそうだ。
今日はOFFライト祭りか。
そして、遂に遂に、、
小屋にたどり着いた。
全員無事だった。
小屋の時計は19:30をまわっていた。
朝8時から歩き始め、実に11時間以上の超難関雪山訓練になってしまった。
人の息を、光を、火をこんなに愛おしく感じたことはなかった。
そして、日頃「生きる意味がわからない」などと生への虚無感を持っていた私が、いざとなった時にここまで「生に執着」した自分自身に驚いた。
私は全身で生きたかったのだった。
死にたくなかった再び生死を自分に問い直す時が来たのだと思った。
死にたくなかった再び生死を自分に問い直す時が来たのだと思った。
◆小屋到着
遭難後小屋に到着直後。生還した安堵か、喜びか混じった
こちらも。到着直後。しかし、前者と雰囲気が違うのはなぜか。(2017年4月)
命の恩人オッチャンこと、東條さん。(2017年4月)
命の恩人の山小屋のオッチャンは、小屋に入った私たちにまるで自分の家族のように顔をくちゃくちゃにして笑って
「よかった、よかった、、本当によかった」
と言って喜んでくれた。
「よかった、よかった、、本当によかった」
と言って喜んでくれた。
泣きそうだった。
いや、むしろなぜなけなかった。
なけよ。わたし。
私はみんなを全力でハグした。
(かった。実際は恥ずかしくてできなかった。)
(かった。実際は恥ずかしくてできなかった。)
そしてオッチャンはおもむろに
「じゃあまず小屋使用ルールDVD見てね。」
と言って冷え切った大きな部屋の真ん中で3分ほどのDVDを直前まで遭難していた私たちに見せた。
私たちは九死に一生を経て、
そして今、
震えながら、
震えながら、
鼻を垂らしながら、
夏山の青々とした写真と共に流れるオッチャンのナレーション入り小屋のオリエンンテーションDVDを眺めていた。
みんな疲労困憊で呆然としていたので、
いろいろツッコミどころ満載のこの状況をただ受け入れるしかなかったようだ。
いろいろツッコミどころ満載のこの状況をただ受け入れるしかなかったようだ。
私たちはみんな多分同じ気持ちだった。
ほとんど喋ってなかったけど、同じ試練を経験した私たちはいつの間にか以心伝心してた。
◆最後に
あの時の電話。(2017年4月)
これが、私が人生初死にかけた経験。
こんなこと、2度と起こらないだろうし、そうであることを願う。
しかし、同時に大きな自信や確信を得た、かけがえのない経験であった。
そして、最も印象的であったのは、あの奇跡の電波。
あの時以外、前にも後にも電波が舞い降りたことは一切なかった。
あの一瞬だけ、電波をつかんだ。
いや、目に見えぬ何かが私たちに「まだ死ぬな」と手を差し伸べたんだ。
大いなる力には時として流されるべきなのだ。
私はこれを「18:37の奇跡 神の見えざる手」と適当に名付けた。
人生の冒険は
つづく