「ヨガを学ぼう」と思った理由⑴
思いと決意へのトラウマ
「学ぼう!」
そういう前向きな思いが湧いて来た
でも
今の気持ちは大事だけど
こういう思いはまたすぐに変化して
「消えてしまうもの」だと分かっているでしょう
と、すぐに ネガティブな自分が語りかけてくる
いつもそうだった
絵描きになろう、教育を突き詰めよう、
芸人になろう、海外に住もう、作家になろう、、
とその時自分の人生全てを捧げて
やってやろう
と心から決心しても
1分1秒毎に周囲の世界が目まぐるしく変化して
みるみるうちに
自分のあんなに熱いと思っていた気持ちは
周囲の言葉、状況、欲にかき混ぜられて
やっぱり気づくとどこかに消えてしまっている
だから「決心すること」に恐怖心があった
変わりやすい自分を
流されやすくて軽薄な人間だと責めた
無常の真理
でも、しかし、
人は変わる物モノ
この世の中は常に変化し続けるのが道理
流れ続ける川の流れはこの世
そこに浮かぶ泡は生き物の命や事象
その泡は一方では現れ、一方では消えていき
長いことそこに居続けることは無い
有名な冒頭部
「情熱の炎」とか「熱い気持ち」というと
そういうのが「火」みたいなイメージをもつ
でも人の心は「火」じゃない
私達はしばしばその「火」に
「頑張る」という有限の化石燃料を注いで
走り続けようとする
或いは他人から「頑張れ」を注がれて
走らされ続けようとする
「心」は常に燃料を与え
団扇で仰いでいなければ
消えてしまう「火」のようなもんじゃない
いや寧ろ「火」なのかもしれないけど
もっと大きくて長期の視点
大局から見ると
心の「火種」
「燃え盛る」
「消え失せる」ってのも
「流れる(変わり続ける)」大きな車輪の動きの一部に違いない
ああ、世界は「自分一人じゃないんだ」と思う
「あなた」「両親」「家族」「ご近所さん」「彼氏・彼女」
「あのおっちゃん」「このお嬢ちゃん」「オバマ」
そして
「大地」「海」「風」「空」「太陽系」「銀河系」
の中の「私」
大小様々な車輪が噛み合って
関わり合って作用しあって
回り続けるこの大娑婆世界も悪くない
「変わっていいんだ」
「思いは亡くなってもいいんだ」
「また生まれるから」
やっぱり水のあぶくと同じだ
変化を受け入れる勇気と覚悟が瞑想の目的
ところで
瞑想ってのは
以前は
「一点に気持ちを集中させてそれを動かないようにするもん」
だと信じて実践していたのだけど
そもそもYOGAの語源はサンスクリット語の「YUJ」といって
「暴れ回る牛や馬に軛(くびき:荷台を引く牛馬の頸の後ろにかける横木のこと)
をかけて荷台とを結合させる」の意味
人の心は落ち着かなくて常にあちこちに動き回っている
それを一つの場所に座り続けさせる
と、確かに納得する
しかし一点に集中することに頑張ってしまい
つい肩に力が入り、気持ちも穏やかでない
ということが何度もあった
そんな矢先インドで出会った
ヨガの先生の言葉
「瞑想というのは一点に集中力を留めるというより
周囲の流れ続ける世界に抗うことなく
どっしりと安定して身を委ねて全てを受け入れる
という風に心を開き切ることだと思う」
これや!!!!!
( ‘Д`)シクシク…ドナドナド~ナ~
つづく・・