元センセー 日記

元都内公立小学校教師、現在は色んな考えや世界に触れて変わっていく自分とその周囲を観察するのが楽しい.

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「ヨガを学ぼう」と思った理由⑵ ~「目」が表すモノ~

インド半年の旅も終盤

 

残り2週間は

西海岸カルナタカ州から東海岸の都市チェンナイにバス移動して

そこから海岸線沿いを北進して、友人のいるオリッサ州に行って

最終的にはマザーテレサの「死を待つ人の家」でボランティアする予定だった

既に飛行機やバス、電車のチケットも手配していた

 

のだけど

 

アシュタンガ・ヨガ発祥の地「マイソール」で

飛び込み参加した朝夕2回のクラス

 

そして

 

翌日移動した世界遺産の地「ハンピ」で

飛び込み参加した朝のクラス

 

このたった3回の実践と

グル・ジ(先生の意)の「目」

YOGAを「学ぼう」と決めた

 

「目」

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普段から

「いい意味」でも「面倒な意味」でも

人の「目」は非常に興味がある

 

例えば

友人と2人でカフェで向かい合って話してる時

相手の興味関心の羅針盤の北を表す「目」が

 

自分でなく

手元のスマホ

外の風景や

或いはもっと遥か遠くを指しているとしたら?

 

「2人」という状況で

本来はお互いに興味を示し合って

会話を弾ませるべき状況にも関わらず

そうなっていない

(「~べき」こういう固い思考が自分を苦しませている)

 

それに気付くや否や

 

気弱な私は

 

「この人は私といても楽しくない」

「この人が楽しくないのは私のせいだ」

「私が今ここにいてもいなくても変わらない」

「私がいる意味はない」

 

と直ちに自分の存在を否定し始めるだろう

自分を保てなくなる

 

私は

自分の存在理由は自分でなく他人の判断に依る

という思考パターンに陥っている

(社会に手玉に取られてるのか。)

 

 

かわいそうでしょう?

 

目を見て話が出来ない訳

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人の「目」を見て話が出来ない

という人がいるように

 

そういう人は

「相手の目」=「自分の評価」

という思考に陥っている(追いやられてる)

 

ましてやこういう人は自分に自信が無いのだから

その評価を直視するのが怖いに決まっている

 

始めから「評価」がCかD(楽しい2人の時間を作れず

相手が自分に興味を持たない状況)なのを分かっているから

 

そもそも

 

成績簿をあけない(相手の「目」を見ない)

 

傷付くだけだから自分で見たくないのだし

何よりそういう成績簿を人に見せたくない

(第三者に、私のせいで相手は無駄な時間を過ごしているという状況をまじで悟られたくない)

 

相手の「目」を見ないというのは

不戦勝しているということ

最初から諦めている

「自分を」諦めている

 

「勝ち」にこだわり過ぎて

「負け」を極端に恐れるあまりに

土俵にさえ立てない

 

スポーツで1番大切なのは

「勝ち負けじゃない」ってことを

分かっていない

 

自分の評価は

他人が決めるもんじゃない

ってことを分かってない

 

いやそもそも

「自分の評価」なんて

どうでもいい

(どうでもよくない時もあるけど決して1番大切なモンじゃない)

ってことを

全くもってわかってないんだ 私は

 

希望から遠ざかる悲しい思考

 

過剰な自己愛 の逆説

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そして、

 

そもそも(そもそもばかりだけど) さっきから

 

「私・私・私・私・私・私・私・私・私・・・」

「自分・自分・自分・自分・自分・自分・自分・・・・」

 

と「例えば・・」のくだりから数えると

16回も言ってる

 

そう、「自我が強い」のだ

 

自分に自信が無いのは

「自分」があまりにも愛おしくて

「自分」があまりにも特別扱いされたくて

「自分」が何よりも一番大切だから

 

「自分」の期待以下の評価をされて

かわいい「自分」が傷つけられるなんて事は絶対に許さない

 

だから

相手が評価する前に

「自分」で「自分の評価」を予め落としておく

そうすれば他人に傷付けられることもない

 

しかし

 

本当のところで大切な物を失って

深く傷付いていることに気付いていない

或いは

見てみぬふりをしている

 

これは本当に生きるのが苦しくなる

 

 以下、太宰治道化の華」より

人から言われたくないが故に、まず、真っ先におのれの身体に釘を打つ。これこそ、卑怯だ。もっと、素直にならなければいけない。ああ、謙虚に。                   

 

彼らの心の中には、混沌と、それから、訳のわからぬ反撥 とだけがある。或いは、自尊心だけ、と言っても良いかもしれぬ。しかも、細く研ぎ澄まされた自尊心である。どのような微風にでも震えおののく。侮辱を受けたと思いこむや否や、死なんか、ともだえる。葉蔵がおのれの自殺の原因を尋ねられて当惑するのも無理が無いのである。-なにもかもである。

 

 いい目のグル・ジ達 

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話が大幅に脱線し過ぎて

むしろ快走♪ すんません

 

 

結局何が言いたいかというと

 

私の出会ったヨガの先生は

「いい目をしていた」

ということ

 

「いい」というのは

自然で装っている感じがなく

 

例えば 

「目」の中に何か意味を持たせて

「プレゼンでは目線が大切!」みたいな指導を受けた新入社員が

「相手の目を見て話すことによる効果!!」みたいな小賢しいたくらみを含んだ

ギロギロとしたわざとらしく不自然な

「目」じゃない

 

もっと

「そこに置くべき時に置かれるべき物をただ置いた」

 ような感じ

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私達が普段全く第三者を意識をしないでやってることって何だろうか?

歯磨き?トイレットペーパーを巻き取る動作?か?

 

彼ら(グル・ジー)は

「目」を、「見る」ということ以外に

余計な役割を持たせていない

 

「見たいから見た」

「見たくないから見ない」

 

そして、

彼らは私と話をしている時

 

あまりにも真っすぐに

純粋に

私の目を見ていた

 

 

彼らだけでなく

インドで出会ったほとんどの人々が

そういう「目」をしていた

 

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心からそういう「目」の人になりたいと思った

 

 

なかなかYOGAに近づかない・・

 

つづく

 

「ヨガを学ぼう」と思った理由⑴

思いと決意へのトラウマ

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「学ぼう!」

そういう前向きな思いが湧いて来た

 

でも

今の気持ちは大事だけど

こういう思いはまたすぐに変化して

「消えてしまうもの」だと分かっているでしょう

 

と、すぐに ネガティブな自分が語りかけてくる

 

いつもそうだった

 

絵描きになろう、教育を突き詰めよう、

芸人になろう、海外に住もう、作家になろう、、

 

とその時自分の人生全てを捧げて

やってやろう

と心から決心しても

1分1秒毎に周囲の世界が目まぐるしく変化して

 

みるみるうちに

自分のあんなに熱いと思っていた気持ちは

周囲の言葉、状況、欲にかき混ぜられて

やっぱり気づくとどこかに消えてしまっている

 

だから「決心すること」に恐怖心があった

変わりやすい自分を

流されやすくて軽薄な人間だと責めた

 

 

 

無常の真理

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でも、しかし、

 

人は変わる物モノ

この世の中は常に変化し続けるのが道理

 

流れ続ける川の流れはこの世

そこに浮かぶ泡は生き物の命や事象

その泡は一方では現れ、一方では消えていき

長いことそこに居続けることは無い

 

というのは鴨長明の「方丈記」(1212年)の

有名な冒頭部

 

「情熱の炎」とか「熱い気持ち」というと

そういうのが「火」みたいなイメージをもつ

でも人の心は「火」じゃない

 

私達はしばしばその「火」に

「頑張る」という有限の化石燃料を注いで

走り続けようとする

或いは他人から「頑張れ」を注がれて

走らされ続けようとする

 

「心」は常に燃料を与え

団扇で仰いでいなければ

消えてしまう「火」のようなもんじゃない

 

いや寧ろ「火」なのかもしれないけど

 

もっと大きくて長期の視点

大局から見ると

 

心の「火種」

「燃え盛る」

「消え失せる」ってのも

「流れる(変わり続ける)」大きな車輪の動きの一部に違いない

 

ああ、世界は「自分一人じゃないんだ」と思う

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「あなた」「両親」「家族」「ご近所さん」「彼氏・彼女」

「あのおっちゃん」「このお嬢ちゃん」「オバマ

そして

「大地」「海」「風」「空」「太陽系」「銀河系」

 

の中の「私」

 

大小様々な車輪が噛み合って

関わり合って作用しあって

回り続けるこの大娑婆世界も悪くない

 

「変わっていいんだ」

「思いは亡くなってもいいんだ」

「また生まれるから」

やっぱり水のあぶくと同じだ

 

 変化を受け入れる勇気と覚悟が瞑想の目的

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ところで

瞑想ってのは

以前は

「一点に気持ちを集中させてそれを動かないようにするもん」

だと信じて実践していたのだけど

 

そもそもYOGAの語源はサンスクリット語の「YUJ」といって

「暴れ回る牛や馬に軛(くびき:荷台を引く牛馬の頸の後ろにかける横木のこと)

をかけて荷台とを結合させる」の意味

 

人の心は落ち着かなくて常にあちこちに動き回っている

それを一つの場所に座り続けさせる

 

 

と、確かに納得する

 

しかし一点に集中することに頑張ってしまい

つい肩に力が入り、気持ちも穏やかでない

ということが何度もあった

 

そんな矢先インドで出会った

ヨガの先生の言葉

瞑想というのは一点に集中力を留めるというより

周囲の流れ続ける世界に抗うことなく

どっしりと安定して身を委ねて全てを受け入れる

という風に心を開き切ることだと思う

 

これや!!!!!

 

 

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( ‘Д`)シクシク…ドナドナド~ナ~

 

つづく・・

 

 

 

インド人⑵ @南インドマイソール

朝9時ころにも

太陽光が入らない

外部との接触が絶たれたような部屋でも

外の騒々しさを感じることができたので

やっと起きた

 

おもむろに初日のYOGAの早朝クラスを逃したことに気づく

「まあ、いっか」

という楽観さは南インドの穏やかな時間の流れからきたのだろうか

 

晩御飯に食べた黒くなったバナナの皮を手に持って

外に出ると一気に脳みそがかき混ぜられるような

音と映像と臭いの混雑

 

露店 

昨日、チャイを飲む為のカップをもっていて

それを使いたかった

「チャアハ イディア?(チャイありますか?)」

「アウトゥ(YES)」

「ベコー(ください)」

 

いつも牛のように無表情で

むしろ苦悶の顔してる

感情を読めない彼らが

笑みを浮かべるのは

決まって彼らの言葉で外国人が話しかけた時だ

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(だからと言って逆に「ハーイ(^O^)/コンニチワ」

と日本語で話しかけられると怪しく思ってしまうのだけど)

 

ふと奥の広場に目をやると

 

朝ごはんを手で食べる

地元のおっちゃん達でにぎわっていて

なんとも愉快そうだった

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その雰囲気に浸りたくて

「イディリー」(米粉の蒸しパンの南インド伝統料理)と

「チャドニー」(ココナッツベースのドロッとしたおかず)

を注文した

 

私はいつも、それが何なのかわかっていても

「これは何?」と

わざと聞く

そうすると、会話が始まるし

会話をするとその人の人柄が見えてくる

 

その人人の「こえ」も「しゃべり方」もみんな違っていいんだよなぁ

 

インド人のゴミに対する意識 

その時、バナナの皮を左手に持っていて

周りに牛や馬も見当たらなかったので

「土に捨てれば堆肥になるし」

と思って何気なくその場にポイした

 

「!?」

と隣の赤いシャツの太った穏やかな顔の

おっちゃんが表情を変えた(と思った)

「★◆##$★☆!!!」

何か私に言っている?

けどわからない

今地面にポイしたバナナの皮を指差している?

にらまれた?

 

そして誰かを呼んで

店の人らしき細いインド人が来て

 

その地面に散らばったバナナの皮を

拾って、ひろって・・・

どこかに片づけた

 

この時のショック!!わかりますか?

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私の中では

インド人はゴミがそこら中に溢れている状況は

日本人がコンクリートに囲まれたオフィスにいても

それに違和感を感じず

むしろ快適とさえ思ってしまうように

彼らもそれを当然のように感じてしまう

一種の病的状況で

いちいち不快感や疑問をもつものではないと思っていた

 

だからこそ、

私はラダックに行ったときは

ラダックの人々にこの違和感に「気づき」を与えるために

わざわざ他人のごみを拾ったり

目の前で捨てた人に注意したり

自分の出したゴミの袋をバックからブラブラさせて

歩いている

 

だからこの赤いシャツのおっちゃんの

行動は

「気づきのある人がいる!」

という希望のショックを与えたんだ

 

でも、確かに南インドでは

竹を束ねた箒で細めに道路や

歩道の隅をはいている姿をみかけていた

 

同時に自分が捨てたゴミを

人に拾わせたという羞恥のショックも相まって

 

この出来事は私の中で大きく

記憶に残るでしょう

 

「祈り」の意味 

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注文した食事が来た

わたくし事だけど、私は食前に

少しラダック式の祈りをする

「オマ フン ストンバ ラメ サンギャース リンポーチェ・・・」

簡単な祈りなのだけど

これは

「自分が食べる前に

まずは周りの神神や霊魂、

そして偉い方々(ラダックでは高僧)に

先にどうぞ召し上がってください

というような意味合いがある祈り

 

今年の8月頃にラダックのシェイ村に住んでいる時

ケイロンから「ヘミス祭」を観に

ホームステイ先のシェイの家に

偉いお坊さんや知人のご夫婦が滞在していた

 

お坊さんの名前は「ゲン・リグジン(ゲンは僧侶の意)」という

一緒にご飯を食べたり給仕したりするうちに仲良くなって

「ツェリン・ドルマ(私のラダック名)は自分の娘と同じようだよ」

と言って色々ないい話をしてくれた

 

そのいい話の一つがこの食前の「祈り」

 

例えば、食事だけじゃない、

美しい花の香りを嗅ぐ前

素晴らしい大自然の風景を見る前

大好きな人と再開する前

まずは自分でなく、

周囲の尊い霊魂や偉い方に

この幸せをお先にどうぞ

とおすそ分けする

 

祈り

祈りは私たち日本人にはあまり馴染みがないかもしれない

大多数が特定の宗教を持たない

いや寧ろ

目に見える物しか信じない「科学教」の私たちには

その存在を確認する術を見出せない事象に対して

極端に抵抗を示したり偏見を持つような気がする

 

「祈り」っていうのは

これをして本当にお偉い方々の腹が膨れるとか

誰かが救われるとかっていうものじゃない

 

「祈り」は

それをする人自身の「心づくり」の練習なんだ

と聞いた

 

身体づくりで大切なのが呼吸であるように

「心づくり」で大切なのは「祈り」なんだ

 

私たちの心(mind)は目に見えるもんじゃない

でも

本当に大切なものは目に見えない

 

足るを知るインドのおっちゃん達

少し酸味があるのが特徴のイディリーを

ほおばりながらおっちゃん達と喋っていた

 

ポトッ

 

とおかずのチャドニーと同じような

緑色のクリーミーな物体が上から落ちてきた

上を見るとカラス?のような

黒い鳥がお尻をぷりぷりふっている

 

ちょうど真っ白なイディリーにかかって

それはそれできれい

 

それを見るなり

おっちゃんはいきなり怒鳴りつけるように

二言三言叫んで

最後に上の鳥たちを

「フオオ!!!!!」

と言って追いはらってくれた

 

糞イディリーを廃棄してもらって

お金払って帰ろうとしたら

椅子を指差して「座れ」という

 

そしてすぐに新しい焼きたての

「ドーサ」(米粉のクレープ)を出してくれた

 

「ティケ??(いいの?)」

「ハーーーン!(No Problem)」

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そのドーサのおいしさといったら

味だけでないからね

おっちゃんの優しい気持ちも詰まってますから

「料理で心が満たされる」ってこういう事を言うんだ

 

チャイもくれた

 

エストゥ?(いくら?)」

食事を終えて値段を聞くと

「30ルピー(55円くらい)」

とあまりにも安い

というか安すぎて利益が出なくて

商いになっているのか?と思うほど

 

せいぜい、

彼らの生きていくのに

最低限の利益

(と、言えるのか?経費で終わりそう)しか

とらないというのか

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この露店を毎日毎日朝から夜までやって

地元の人々の腹を低価格で満たし

人々とおしゃべりし

たまに外人さんと話したり

地元の祭りを祝ったり

神に祈りを捧げたり

そうして彼らは生きて

人生を送っていくんだろう

 

子供や家族がいるのか分からないけど

養っていけるのかわからないけど

だれかの言葉を借りると

「これでいいのだ」

 

かつての日本人の美徳として

「足るを知る」

という言葉があったのだけど

 

現代の日本は

欧米諸国の大量消費を見本に

超消費、そして超廃棄国として

その地位は揺るがない

 

帰国したときにいつも感じる

「執拗なまでに広告が多い」違和感

 

車内、電柱、あらゆる壁という壁が

私たちの消費行動を煽るための宣伝で埋まっている

 

そしてやはり

本当に大切なものはそれらに埋もれて見えなくなっている

 

こんな日本人である私だから

こういうおっちゃん達の無垢な無欲さに

違和感を持ったり

たまに不信感を持ったり

してしまうのは本当に悲しい

 

同時にこういう人から

「人間とは」という根源を学べる機会が

まだ帰国までの10日間残されている

 

少し多めに50ルピー払い

その後 盲の物乞いに100ルピー置いて

心は晴れやかで

「リキシャーコンニチワ、リキシャー」

という騒々しさも何だか愛おしかった

 

*あと試したんですが、速足で歩くとあんまり声かけられません

 

つづく

 

 

本来の人間生活の営みは?

 

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ラダックに住んでいた今年の6月頃、

前半の約3週間くらい、

現地のNGO PAGIR でボランティアをしていた。

 

簡単に説明すると、

「障害を持った人とそうでない人も

一緒にラダックを良くするための活動をしよう!」

みたいな感じ。

 

障害のある無しの分け隔てなく、

例えば、盲、聾があってもそれに対して極端に手厚い扱いをしたり

専門家による対応が必要なもの、

などと捉えないってこと。

 

■補い合うことが人間本来の普遍性

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その人の個性を認めるってことは、

年齢、経験関係なくできることでしょ。

 

例えば、私は話を聞くのが苦手な生徒でしたから、

いつも隣の友人に

「先生今なんて言ったの?」

とたずねて自分から助けを求めることを

何の罪悪感なく、

むしろ、「こういうボケもご愛嬌でしょ?」

みたいに思ってたし、

 

隣の子も「だから~」

みたいに毎回教えてくれていましたし、

そのうち、メモをくれるような配慮もしてくれていた。

 

他にも、例えば、山登りに行くと、

重いものを持つのが苦手(というかそれだけの力がない)

早く歩けない、

キャンプしても火をたけない

 

みたいな人それぞれの違いがあって、

それを当たり前のように補うことが出来るのが

人間独自の営みだと思う

 

そうして、補い合いながら

人と人との関係性を認識し(気付く)

間を取り持ち、

「人間」たらしめるのだと思う。

 

それが本来の人間生活だし、

普遍的な人間社会。

 

■世代毎に境界線を引かれ接点をなくした

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こんなに分割して、

わざわざそれぞれの分割したグループに役割分担

いや、「このグループはこうあるべきだ」

というような外部からの色付けを

強制的にされていた時代はあるのだろうか。

 

子供たちは、学校で

「年齢」

というたったひとつの要素で完全に上下分割される。

おかしいじゃないか。

社会に出たら全く年齢が同じだけの集団なんて無いのに。

 

結果・・

横1列に並ばせられた集団は

誰が1番か、だれがビリかという

「競争」「比較」「劣等感・優越感」

を育む最高の教育になる。

 

老人ホームに入れられた老人は

「介護される対象」

としての役割しか社会から期待されていない。

働く世代の雇用を生み出す源だから。

 

ぼけないで、自分で畑やって、

孫の世話もして

病院にも通わないで、

自宅で静かに老衰

なんてのは日本経済的に困るんだ。

 

■Out Of My Departure(自分の範囲外)

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それと、専門家とそうでない人との境。

 

例えば、歌と踊り。

歌と踊りは小さな1歳の幼児でも、

90歳のおばあちゃんでも、

誰でもできるもの。

でも、今、みなさんは人前で歌ったり踊ったり

する機会ありますか?

あったとしても

「やだ、わたし下手だから」

とか言わないでできますか?

 

これは、

「上手い人=専門家・プロしか歌ってはいけない(踊ってはいけない)。」

みたいな常識が勝手にインプリントされているから。

 

歌や踊りだけならまだいい。

 

これが

「プロしか料理を作ってはいけない。」

「プロしか絵を描いてはいけない。」

「プロしか家を建ててはいけない。」

「プロ(きれいな人)しか町を歩いてはいけない。」

「プロ(学歴のある人しか)政治にさんかできない。」

となって

 

やはりこれも人人に劣等感を抱かせる

自分の手でやってみないで、人(プロ)に任せる

任せるってことは依存するってこと

依存するってことはコントロールされるってこと

 

誰に?

 

■メディアの役割

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こういうインプリント(刷り込み)の大元の

マスメディア」(新聞、ラジオ、雑誌、とくにTV

に。

 

TVに出るのは女優、男優、面白い人、プロの人。

こういう人が善で、

バカにされたり、誹謗中傷にさらされている人は悪。

 

 

メディアの流す情報、特にNHK

公正・中立に見えて(いやみえないか)

ものすごく偏っている。

 

まず世界中、日本中でも毎日起きる莫大な数のニュースから

どんなニュースを選択し

公に放送するという時点で

何かしらの上の人の思惑が反映される

 

プラス放送の仕方、取り扱う程度など

中立的な放送はありえないでしょう。

 

■人工的な劣等感生産

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私たちが感じる

「私なんか出来ない」

「あの人よりも自分はダメだ」

「自分で何も決められない」

という苦しい劣等感。

時に生きるのさえ厭になる

 

こういう感情は上述のTVの刷り込みから来ている

本来持たなくていい感情。

 

勝手にそう思考するように私たちは

情報によって誘導されている。

 

なぜ?

上のお偉いさんは、TVなんて絶対見ないでしょう。

管理する側ですから。

 

私たち民衆は「管理されやすいように」

より無知で

より単調で

より個人主義

より他人に対して懐疑的で

より競争心が高くて

より自分の人生を他人任せにするように

仕向けられている。

 

■PAGIR

話を元に戻すと、

ラダックのPAGIRがやっている

INCLUSION(統合)

っていう力は

多分、私たち民衆が

バラバラにならないで協力して助け合って

草の根レベルの私たちの家族、親類、地域にある

本当の「幸せ」を創り認識するときに

1番大切な力。

 

実際、ボランティアの時に

障害があるから特別扱いだとか

「かわいそう」という感情の中にある見下す気持ちは

彼ら(メンバー)には一切感じなかった。

 

そもそもラダックという地域自体が

様々な年齢、職業、思想が絡み合って

それを「認め」、「補い合う」こと自体が

当たり前のこととして生活の一部として流れている。

 

お金を出したから「優遇」されるとか、

お金無しの「親切」を懐疑的にみてしまう

私たちは、生物としての人間の本来ある

社会的な生き方から

大きく逸脱してしまっているのかも。

 

■希望さえあれば

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「希望」を無くしたら

私たちは何があっても生きていけない。

 

この「自殺大国」の烙印も

何かに仕組まれたものだとしたら、

それを恨むのでなく

「希望」をもって

服従したい

 

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「希望」さえあれば・・・

つづく

 

 

インド人⑴

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日本で「インド」と聞くと、イメージするのは

「カレー、混沌、レイプ事件」くらいじゃないかなぁと思う。

 

TVやネット記事で挙げられるインドのニュースは

かなり限られて偏ったものだと感じるのは、

実際にその「インド」に足を踏み入れてみたからだと思う。

 

■ 分かりやすい吹っかけインド人 

インド人の中には旅行者だと分かると

商品やサービスの倍以上の値段で吹っかけて騙したり

執拗に追いかけてきたりして、

断るのが苦手な日本人は「いいカモだ」なんて思われていることもあるっぽい。

 

でも、

そういう「悪い人」、というか、「うっとうしい人」はとてもとっても分かりやすい。

▶「観光地。」

   かつ

▶「自分からよって声をかけてくる。」

(ハロー、宿探してるの?やすいのがあるよーみたいな感じ。)

という二つの条件がそろっている人は必ずと言っていいほど、

騙そうとする人なのだ。

 

だから、

逆にこの二つに当てはまらない人、

特に、「自分から声をかけて来ない人」

ほぼ!!いい人。ですので、ご安心を。。

 

*これも、現地に行って、そういう状況に出会うとすぐ分かる。

*うっとうしいインド人も蠅や蚊が周りを飛んでると思えば、

たまにはわざと会話を進めて遊んでみるのも楽しいかも。

といっても、彼らは生活の為にやっているのだからあまり良くないかもしれないけど。

 

■ ガンディー思想が根底にあり基本親切 

インドといえば、

「マハトマ・ガンディー」「マザーテレサ」「ブッダ」など、

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世界の偉人中の偉人を思い浮かべる。

 

もちろん、現地のインド人たちも、インドの偉人は大好き。

仏陀の誕生日も、ガンディーの誕生日も国を挙げて祝う。

マザーテレサが亡くなった日に合わせて、雑誌の特集なんかも組んだりしている。

彼らは単なるヒーローではなくて、

現在のインド人たちに

「困っている人は助ける」(ことはカッコイイ!)

という基本思想を植え付けている気がする。

 

例えば、バスの中で運転手のおっちゃんに

「どこの駅で降りればいいですか?」

と片言のヒンディー語と英語で聞くと、

少なくとも3名の周りのインド人が一緒に

「ハアーーン!」(YES)

と首をスウィング人形みたいに横に揺らして

同意したり、教えてくれる。

 

そしていざその駅につくと、

「ここ、ここだよ!」

とニコニコでもなく、むしろぶすっとした

まくし立てるような語調で積極的に導いてくれる。

 

なんていうか、日本にもたまにいる、

今では希少価値の非常に高い

「おせっかいで何でも首突っ込むおばちゃん」

の率が高いのだ。

 

そもそも、国宗教と言われる

ヒンズー教」。

何百もの神がいて、(メインに拝む神様も勿論いるよ)

その中には

仏陀とか、キリストまで入れ込んでしまっているというではないか。

例えば、南インドの大都市「バンガロール」には、

ヒンズー寺、モスク、教会が混在している。

ヒンズー教は祭りでしょっちゅう火を焚いて大騒ぎしているし、

夕方と早朝には決まって

「グアアアアー」

みたいなコーランの祈りが朝焼け夕焼けと共に聞こえるし、

日曜は協会からミサの歌声や、盛大な結婚披露宴を覗けるし。

 

そもそも、ヒンズー教

1000年以上の歳月をかけて

「アミニズム」的な土着宗教を変化させて造り上げられた宗教らしい。

 

日本人の脈にも流れている「アミニズム」という思想は、

「全ての者、自然、生物、場所などあらゆる所にあがめる対象がいる」

というような考え方。

 

絶対的な唯一の神がいるのではなく、

畏れ多く、尊いものに囲まれているという思想。

人間の世界が中心なのではない。

私たちは環境の一つの要素なのだと。

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インドに来ていつも思うのは、

インドでは周囲の環境に自分を適応させるような力でなく(日本のように)、

どんな人間や状況が来てもそれを認めるという力が必要。

 

「寛容性」というのかな。

 

パキスタンを独立させたり(というかパが強行したのか)

ダライラマ法王の亡命政府「ダラムサラ―」の土地を献上したり、

(他の州にもかなり大きな土地をチベット難民に与えている)

バングラデシュのパキスタンからの独立を仲介したり。

 

なんか・・

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ええなあ!!かっこええやん!インド人!!

と思いません?

 

「多様性国家インド」は同時に「超寛容国家」でもあるんだ。

 

つづく。。

 

 

 

 

ぼやく

私は26歳そこそこの青二

 

最近まで慢性的なうつ気味

 

何かあるたびに死にたくて、

虚無感がずっと付きまとってた。

 

「出来ない」

「だめだ」

「生きる価値がない」

「死にたい」

「死ぬ勇気がない」

「なぜ生まれた?」

 

 

 

極端に視野が狭く

思考が硬化してた

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あの時、ほんの少しでも

自分以外の誰かの

幸せ

苦しみ

を考える隙間も頭の中になかった

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これからは

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自分以外の

人生を想おう

教育がおかしいと思った理由:「いい子」がたどり着いたのは「絶望感」だけ

私はおそらく、かなり幸せな、そして模範的な生徒として小中学校生活を送った。

クラスの中ではみんな仲良くがモットーで友達の和を重視してたし、宿題も勉強もわりと頑張っていただろうし、何より、先生、そして学校が好きだった。

学校に反発したことも、先生の言っていることに疑問を持ったこともなかった。

つまり

現代の義務教育を存分に受け、すくすくと自他ともに「楽しそう」と認めるような、健全な成長をしていった。

 

はず。なのに。

 

▶ハタチの私は「死にたい」ことだけ

 

成人を迎えた20歳のわたしの心の中にはかつての活発、明るく、明朗で好奇心旺盛で誰とも仲良くなどという気持ちはみじんもなく、すっかり消えていた。

 

そして、ただ一つ「死にたい」という気持ちだけ。

 

大した理由じゃない。

全てに絶望していた。

生きるのが面倒で仕方がなかった。

いわゆる「虚無」が私の心の身体のすべてを覆っていた。

なぜ?

分からない。

高校受験も、戦争と言われてる大学受験もなんだかんだでそこそこ楽しく、そこそこ頑張り、希望大学にはいれた。

 

なぜ?

強いて言うなら、大学1年次の2月にぶつかったそんなに大きくもない壁が自分の中の「何か」をプッツンと音を立てて切ってしまったようだ。

「なぜ生きねばいけない?」とか「なぜ死んじゃだめなの?」という疑問ばかりが頭の中をぐるぐるして、そんなこんなしていると、すべてが無意味で、小学校以来続けてきた卓球にも冷め切ってしまった。

 

これは、思春期を過ぎた若者が通る、社会とのハザマで迎える葛藤だろうし、モラトリアムだろうし、大人になるための通過儀礼みたいなもの。

 

なのだろうか。

一日中部屋にこもり、スマホで「自殺方法」とか、「自殺した芸能人」とか調べアサって、その日が終わる。1日のなんと長いことか。人生のなんて空しく長いことか。

自分は役に立たない→立てない→何もできない→消えたい。がぐるぐるぐるぐる

軽い摂食障害も相まって最悪だった。

結局、大学の精神科とか相談室にも数回足を運んだが、何にも変わらなかった。

そのまま、異様に重たい身体と心をひきずって卒業の単位だけをとって、にげるように茨城をあとにした。

 

▶かつての友人の精神病、恩師の自殺未遂

最近、帰省するたびに地元の友人にわざわざ頻繁に会うようにしている。

すっかり変わってしまった自分の昔の面影を探したかったり、なにかの手掛かりが欲しかったのか。いや、もっと単純に懐かしいからかも。

でも、とてもショックなことがつづく。

幼馴染の友人たちのわりと多くが、精神的な問題を抱えて、見るからに不幸せだった。

中学時代の恩師(パワフルで、正義感があり、私の個性も認めてくれた)が、自殺未遂をして救急車で運ばれたらしいのだ。

もう一人のとても魅力的だった音楽の恩師(その人のおかげでいつも私は鼻歌を歌う癖がついた。たぶん。)も、精神病を患い、挙句、あらぬ疑いをかけられて職を失い、今は運送業でせいかつをしているということ。

 

▶現代教育の賜物である、深刻で多すぎる社会問題

個々人の今抱えている問題(性格、個人の能力、不況、政治、社会のニーズとか)

を突き詰めていけば、きっと一人一人、「こういう理由で病みました。」とかわかるはず。

でも、私は現代の闇の共通項を自分なりに見つけたい。

 

それはたぶん、「教育」。

20代前半の若者のほとんどは

その人生の半分以上を学校で過ごす。

そして、学校から社会という海に投げ出された時に私たちは驚くほど何もできない。

そして、日本社会は私たち(優良な元生徒たち)を大歓迎する。

私たちは会社に多少の問題を感じても、今までのような居心地の良さを感じる。

それは、言われたことだけを真面目にこなす。

頑張っているような姿勢を周りにたくさん見せる。

時間を守り過ぎる。

文句を言わないで、従う。みたいなこと。

 

そして、社会は私たちを食いつぶす。

 都内で1日何回、ありえない理由で電車が止まることか。

 格差社会の犠牲になった人々が都庁の前を浮遊して、その間を西洋化の象徴であるネ クタイスーツに身を固めた(というか身を隠した)顔の無い人が速足で通っていく。

 不安と怒りを限界までため込んだ眼はくすんでいて、光がない。(実際そう。遠くを見たり、上を向くと目にハイライトが入るんだろうけど、上瞼が落 ちて下を向いているとまるで、まさに死んだ鯉の眼になる。)

 

 

 

▶︎どうして?!

なぜだろう。

私は学校生活を存分に謳歌し、青春し、教師、両親、社会の期待する像になった。

 

そして絶望した。

 

現代の教育は笑える。

茶番。

茶番にもなりえない、おやじギャグみたい。

 

学校は間違っている。