元センセー 日記

元都内公立小学校教師、現在は色んな考えや世界に触れて変わっていく自分とその周囲を観察するのが楽しい.

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カオスの先の悟り

南インドから飛行機で一気にデリーにスキップする。

 

わずか2時間程でマイソールの気のいいおっちゃん達が遥か遠くに。

 

私はなんだか少し感傷的だけど

 

彼らは私がいても、いなくても

彼らの生活を変わらず今まで通り続けるんだ。

 

デリー空港

深夜1時に

世界1のサービス認定空港という

目を疑う看板だらけのデリー空港に到着。

 

デリーに着くと

覚えたてのヒンディー語

あんまり使ってみようという気にならない。

 

私自身北インドでは警戒しているし

実際、毎度デリー空港のスタッフからは

ひどくぶっきら棒に適当な情報を教えられるという

日本では絶対に味わえない不快なサービスを受ける

あり難い経験をさせて頂いている。

 

ロビーで荷物と自分の腕を紐でくくり付けて朝まで5時間ほど仮眠。

 

朝6時過ぎに市街に出るために

空港バスに飛び乗る。

 

流れる風景の中での瞑想感覚

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地下鉄のメトロは安くて快適で速いのだけれど

私は

少し高くて汚くて遅いバスを選んだ。

 

「イヤホンで音楽を聞きながら

町の風景を窓越しに流し見する時以上に

思索に適した環境ってないんじゃないか」

と思うほど

この一時は思考が広く深くを巡り、明朗になる。

 

瞑想した時のような

一種のトランス状態みたいなものを感じる。

 

 なぜだろう。

 

そういえば以前興味深い方法の「瞑想」を聞いた。

 

Active Meditation(活動的瞑想)という。

 

話によると、

目を開けながらくるくると回り続けたり、

同じ動作をひたすら15分間繰り返すというもの。

 

これは、常に自分の視界や外部環境を変化させ続けることで

逆に動きやすくて定まらない「心」の定点を見出すというものらしい。

 

習得過程の男女差傾向

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例えば大学時こんな話を聞いた。

5歳の男の子と女の子にバランスボード(板の下にボール又は円柱のポールを置き、板の上でバランスを取るようなもの)をやらせる。

 

そうすると習得していく過程で男女差があるらしい。

 

女の子は板の上で「動かず」大きくバランスを崩すことなく

その状態を保つことで習得していく。

男の子は板の上で「動く」ことで派手に転んだりして失敗を重ねながら

徐々にそのバランスの核を見つけて習得していく。

 

女の子は「動かない」ことで 男の子は「動く」ことで

解決策を模索するという。(あくまで傾向)

 

たしかに中学時を思い出すと

女子は先生に「怒られない」ように最初から「正」を自分なりに見定め

男子は先生に「怒られる」ことで徐々に「正」を見出していく。

*ここでの「正」は単に先生個人にとっての「正」。先生の嗜好みたいなもの。

 

最初に木で芯を作って周囲に土などを重ねていく塑像と

元々具体的な形のない木や石を削り落としていき形作る彫刻

みたいなもんなのか。

 

あえて動く(流れる)ことと瞑想

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元に戻すと

この「活動的瞑想」というのは

「男子的瞑想」じゃないのかと思う。

 

1点に留まることを知らない暴れ馬のような

私達の「心」。

 

本来の瞑想イメージは

「お坊さんが静かに心を研ぎ澄まして1点から心がぶれないよう猛烈に集中する」

という日本では「座禅」のような感じ。

 

この方法は非常にレベルが高く

本当に心を留まらせるのには

半世紀かかるとヨガの先生が言っていた。

 

確かに暴れ馬に紐をくくりつけて抑えつけようとするのは

相当な労力がかかるだろうし、

第一に私達一般人には持続できる気がしない。

 

そのオルタナティブ法として

 

ひっきり無しに動き続ける周囲の風景や状況をあえて作り

「心」を動かし動かしまくることで

 

その中で唯一動かない「核」を見定めることができる

 

或いは動きすぎる世界の中で「心」が動く余地を与えない。

 

これは以前のブログ(「ヨガを学ぼう」と思った理由⑴ - 元センセー 日記)

でも書いた。

ヨガの先生の言葉

瞑想というのは一点に集中力を留めるというより

周囲の流れ続ける世界に抗うことなく

どっしりと安定して身を委ねて全てを受け入れる

という風に心を開き切ることだと思う

 

結局、

「流れる」状態を知らない(経験しない)限りは

「流れない」状態にすることなどは無理なんだ

という考えにたどり着く。

 

インドで「悟り」が生まれたわけ

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話を起点に戻す。

 

 

おびただしい数の攻撃的な車の流れ。

インド。

常時発せられる叫びにも似た激しく自己主張するクラクションの音。

インド。

鉄の錆と油とそこらじゅうに漂うゴミと熱気を持った人間の汗がぐっちゃになった受け入れがたい異臭。

インド。

そして湿気を含んだひどい暑さが逃げる場所は無く、コンクリートで更に熱せられて完全に頭をノックアウトさせる。

インド。

 

まさに、カオス

 

ほんの数秒で五感をめちゃくちゃにされる感覚は

暫く見なかったテレビを1か月ぶり点けた時に襲われる

あの一方的で、意味不明で、不快な感覚に似ているかもしれない。

 

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ここは

自分が動かずとも

常に「流れる」状態だ。

 

だから、寧ろ、インドで

 

「瞑想」が「YOGA」が「仏教」が生まれたのか?

 

「悟り」という思想が生まれたのか?

 

 

自分の「心」以外に清閑さの拠り所がないのか?

 

 

インド人は何考えているんだろう。。

 

 

つづく